9章-2

 光一は廊下を歩いていた。職員室に出向いたときはまだ掃除中ということもあり、廊下を行き来する生徒で騒がしいくらいだったが、今はその姿はほとんど見当たらない。放課後の学校はがらんとしていて、誰もいない世界に取り残された気分にさせられる。

 そんな寂寥感にいたたまらなくなり、早く家に帰ろうと思い、鞄を取りに教室へと急いだ。

 それにしても――

 階段を登りながら光一は思った。先ほど安田に大学でも野球をやるのかと訊かれた際、どうして自分はああもあっさり首肯したのだろう。甲子園出場という、これまで野球を続けてきた中で最大といっても過言ではないモチベーションを永遠に失ってしまった今、ここで自分の野球人生にピリオドを打つこともありえたはずなのに。


 光一は野球を辞めたいと思ったことが過去に一度だけある。それは小学校四年生の時だ。

 六年生が引退し、野球部のメンバーが四、五年生だけになった秋のある日、他校との練習試合があった。かなりの点差でリードしていたこともあり、監督は五年生ばかりでなく四年生も次々と試合に投入していった。そして光一にも出番が回ってきた。最終回の相手チームの攻撃時にライトを守るように命じられたのだ。これが彼にとって初めての試合出場だった。

 少年野球においてライトはあまり球が飛んでこないポジションだ。左打者ならまだ可能性はあるのだろうが、相手チームは全員右打ちだったし、狙って流し打ちするような技術も持ち合わせていなかった。監督は光一のプレイに期待をしたというよりは、ただ試合の雰囲気を味わらせてやりたかっただけなのかもしれない。

 当の光一もびくびくしながらも、心のどこかで球は飛んでこないものと油断していた部分があった。

 しかし、そんな希望的観測は裏切られることになる。この回の先頭バッターの振り遅れた打球がふわふわとライトに飛んできたのだ。

 光一は本格的に野球を始めてまだ半年ほどの初心者ではあったものの、四年生で試合に出してもらえたくらいだから、簡単なフライくらいは処理できる能力は持ち合わせていた。実際、練習では難なくこなしていたのだ。しかし、この時の彼はパニックに陥り、目測を誤ってしまった。

 光一がバンザイした手の上をボールは通過し、どこまでも転がっていく。ボールを追いかける光一は、胃がぎゅっと収縮し、身体中から血の気が引いていくのを感じた。まるで雲の上を走っているかのように足下がふわふわしておぼつかない。

 ボールはグラウンド奥にある花壇に当たって止まった。光一がボールを掴んで振り返った時にはすでにバッターは三塁を回っていた。あわてて返球したものの、当然間に合うはずもなかった。

 光一は重い気持ちで守備位置に戻った。他のナインはドンマイと励ましの声を送ったものの、彼の耳には届かなかった。

 その後、再びボールが飛んでくることはなかった。チームメイトは大勝に浮かれ、監督もポケットマネーでみんなにアイスを奢るほど上機嫌だった。そんな中にあって、光一だけが沈んでいた。自分のエラーなど何事もなかったかのように片付けられているのがよけいに辛かった。

 もう野球なんか嫌だと思った。

 野球部に入ってから半年間、ずっと球拾いばかりやらされてきた。一緒に入った友達が嫌気がさして次々と辞めていく中、光一は懸命に頑張った。それもひとえに試合に出たかったからだ。

 今日、晴れてその望みが叶った。だが、その結果はどうだ。ただ辛く、苦い想いが残るだけだった。きつい練習に耐えてやっと手に入れた試合の出場なのに、なんでこんな嫌な思いをしなくてはならないのか。もう嫌だ。野球なんて辞めてしまおう。

 みんなが楽しんでいる時にそんなことを言ったら場を白けさせるだけだから、あしたになったら辞めよう――そう胸に誓い、光一は帰宅した。

 夕食時に親に今日の試合はどうだったか聞かれたものの、自分が出場したことは伏せ、ただ勝ったとしか言わなかった。その夜はエラーした悔しさと、もう野球ができないんだという寂しさで布団の中でむせび泣きながら眠りに落ちた。

 だが次の日、光一は何事もなかったかのように練習に出ていた。野球部を辞めようとしていたことなどすっかり忘れてノックを受けていた。

 一日経ったらショックが和らいだということもあるかもしれない。だが、それ以上にまた野球をやりたいと思ったのだ。あの辛い想いだけが野球の全てではない、楽しいことだってあるのだとこの半年の経験でわかっていたから。結局のところ、自分は野球が好きなのだろう。

 五年生になってレギュラーを獲得し、以後もしんどいと感じることは度々ありはしたものの、野球を辞めたいとは一度も思うことなく現在に至っている。

 ――たかが野球だろ。

 海に行ったあの日、光一は山口にそう言った。その言葉に嘘、偽りはない。たしかに甲子園に出場できなかったのは悔しいけれど、そのことにいつまでも捕らわれてはいけない――そう思ったから。

 それは光一自身、なかなか割り切ることができずにいた感情だ。最後の試合後、あっさりと新たな生活を始めていた三島や他のチームメイトを薄情だと非難し、後輩を鍛えるという建前で引退した野球部に顔を出しては嫌がられたりもした。

 だが、苦悩している山口の姿を見た瞬間、このままではいけない、このままでは自分も山口も野球という呪縛に押しつぶされてしまう、それだけは避けなくてはならないと思った。そうなったら、今度こそ野球を嫌いになってしまいそうだったから。

 だからこそ、あえて野球と決別しても構わないという強い想いを持ってあんなことを言ったのだ。

 その想いが山口にも通じたのだろう。相手を殴るという、まるで大昔の青春ドラマのような臭い展開の後、山口との間にあったわだかまりをすっかり解きほぐすことができた。自分のしたことは決して間違いではなかったはずだ。

 とはいえ、それで本当に自分は野球を捨てることができるのだろうか?

 その答えは否。自分はこの先も野球を続けていくだろうし、自分でプレイしなくても試合は見続けることだろう。毎年のように新しく現れる高校球児の溌剌プレーに胸を躍らせ、プロ野球選手の技術にうなり、日本人メジャーリーガーの活躍に勇気をもらうのだ。野球というスポーツがこの世から消えてしまわないかぎり、その生活はきっと変わることはないだろう。

 それは、小学校一年生の夏にテレビで高校野球の試合を観て以来、野球というスポーツに魅入られてしまった自分の業であるのだろうから。

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