7章-4

 山口は崖の上に立っていた。

 海から吹き付ける緩やかな潮風が彼の頬を撫でる。エアコンの人工の風ではなく、久々に受ける自然の風は思いのほか心地がよかった。

 ここからだと海水浴場の様子が一望できた。下にいた時も空いている印象を受けたが、ここからだとさらにスカスカに感じられた。

 それでもあそこにはいたくなかったのだ。華やかな場所にいるといたたまれない気分になるから……。

 山口がこんなところに来た理由は、特にない。ただ、浜辺からこの場所を目にしたとき、ここなら一人になれるかもしれないと思ったからにすぎなかった。だから、何をするでもなくただ風に吹かれていた。

「山口!」

 彼を呼ぶ声が聞こえた。それはとてもせっぱ詰まったような怒鳴り声だった。

 山口は声のした方向――彼がここに来るために歩いてきた坂道の方を振り向く。

 そこには光一がいた。山口から数メートルほど離れたところで荒い息をして立っている。

 ……ついに来たか。

 そう山口は思った。決して望んでいたわけではないものの、いつかはこうして光一と対峙する瞬間が来るだろうと予想していたのだ。そして、何を言われるのかも……。

「…………」

 だが、いつまで経っても光一は何も言ってはこなかった。最初はここまで走ってきて乱れた息を整えているのかとも思ったが、それが収まってからも光一は口を開こうとはしない。ただ無言で山口を睨みつけているだけだ。

 二人の間を張り詰めたような沈黙が支配していた。

「山口君ー!」

 その静寂を破ったのは、恵美の叫びにも似た声だった。光一の後を追いかけてきた三人が合流し、これで一緒に海に来たメンツがすべて揃ったことになる。

「山口君、早まらないで!」恵美は光一と違い、息を整える間もなく言った。「たしかに山口君が、あの試合のことで辛い思いをしているのはわかるよ。だけど、死んだら人間おしまいだよ。だから、早まった真似はしないで!」

 切実な表情で訴えてくる恵美に、山口は困惑した。なぜ恵美がそんなにも切羽詰まっているのか彼には理解ができなかったのだ。

「早まらないでって……何が?」山口はその疑問を口にした。

 きょとんとしている相手に、恵美は戸惑った様子で、

「だって、自殺……」

 ……自殺?

 その言葉に、山口ははっとした。

 ふと後ろを見る。その先にはあと数センチほど残された崖と、海と空の境界線が見える。崖の下を見下ろすと、ゴツゴツとした岩場に波が絶え間なく打ち付けられ、白い飛沫を上げている。海水浴場で見た穏やかな波とは対照的な激しさだ。

 ……ここから落ちたらひとたまりもないだろうな。

 そう思った山口は、瞬時に恵美の言葉の意味を理解した。そういえば、ここに来る途中に『危険! 立入禁止』と書かれた立て看板があったのではなかったか。その時は気にも止めなかったが、それはつまり、ここで飛び降り自殺が多発しているということなのだろう。それでみんなは、自分が自殺するものと早とちりし、こうしてあわてて駆けつけてきたというわけだ。

 自分のあずかり知らぬところで深刻な事態が展開していたことが何だかおかしくて、山口は思わず笑い出してしまった。困惑している恵美たちに彼は言った。

「しないよ、自殺だなんて。心配してくれるのはありがたいけど、そんなことするためにボクはここにいるわけじゃないよ」

「……そ、そうね。そうだよね。そんなこと、するわけないよね」

 恵美は戸惑いながらもそう言うと、釣られるように笑った。同じく三島と河合も追随する。一見この場には、笑いの絶えないなごやか空気が流れているようにさえ思われた。

 しかし光一だけは笑うことなく、先ほど同様、挑むような目で山口を見つめている。

 不意に山口の笑いが止んだ。

「……何がおかしいんだい?」ボソリと山口は言った。これまでの不自然な陽気さとはうって変わり、とても陰鬱な様子だ。

「え……?」

 その山口の変貌を察したように恵美たちの笑みも止んだ。再び彼女たちの表情に当惑の色が浮かぶ。

「ボクに自殺する根性もないことがおかしいのかい?」

「そ、そんなこと……」

 恵美は否定しようとするが、山口は受け付けない。

「いいんだ、はっきり言ってくれたって。そうだよ、どんなことだってはっきり言ってくれたほうがすっきりしていいんだ。なのに、変に相手の気を使ったりするものだから、妙な誤解が生じたり、本当の気持ちが伝わらなくなってしまうんだ」

「山口、お前はいったい何を言いたいんだよ」これまで主に喋っていた恵美に代わって河合が口を挟んだ。

 山口の語気が強まる。「マネージャーだけじゃない。河合君も三島君も、それにキャプテンも……みんなはっきり言えばいいじゃないか。『お前のせいで負けたんだ! お前のミスで俺達は甲子園に行けなかったんだ!』って言えばいいじゃないか」

「なにをバカなことを言ってるんだ。そんなこと、誰も思っちゃいないだろ。たしかに、甲子園に行けなかったことは残念だけど、だからってそれをお前のせいにするやつなんていやしないって」

 河合はそう主張するものの、そんな言葉は白々しいと、山口の心には届かなかった。

「迷惑なんだよ」

「……何?」

「そうやって変に優しくされることは、ボクにとっては苦痛以外のなにものでもないんだよ。ボクは非難されてしかるべきことをした。なのに、誰も僕のことを非難しない。それどころか、慰めようとする。その気持ちはわかるよ。人を非難するより慰めるほうが、自分を美しく見せることができるからね。……でも、そういう偽善は逆にボクを傷つけるんだ。はっきり言って迷惑なんだよ」

「お前……いつまでもそんないじけたこと言っていると、しまいにゃ怒るぞ!」

 いいかげん苛立ちを抑えられなくなって河合が怒鳴ると、山口も言い返す。

「だったら、そうすればいいじゃないか! 僕なんかを無理に慰めようなんてせずに、じゃんじゃん怒ればいいんだよ!」

「山口……」

 河合は怒るどころか、山口の剣幕に気圧されて言葉を無くしてしまった。

「キャプテンはどうなんだい?」山口は光一に矛先を向ける。「さっきから黙っているけど、キャプテンはボクに言いたいことはないのかい? いや、きっとあるはずだ。ボクに一番含むところがあるのはキャプテンのはずだからね」

 山口は笑った。それは心の均衡を失ったような歪んだ笑みだった。

「澤崎……」黙り込んでいる光一の横顔を恵美が心配そうに見つめる。

 光一は一歩足を前へと進めた。そして、気持ちを整えるように小さく息をすると、山口に向かって言った。


「たかが野球だろ」


「……え?」

 その言葉に、この場にいた全員が耳を疑った。まさか光一の口からそんな言葉から出るとは予想だにしていなかったから。

 それは山口も例外ではなかった。これまでの変に開き直った様子から一転、混乱した表情に変わる。

 そんな山口に対し、さらに光一は言う。「お前が言っているのは、たかが高校野球の勝った負けたじゃないか。そんなことにいちいち気を病むなよな」

 その言葉に、山口は烈火のごとく反論する。

「な、何を言っているんだよ! ボクたちはその野球に青春をかけてきたんじゃないか! それを、たかがだなんて……そんな……」

「そうだぞ。キャプテン、言っていいことと悪いことがある!」

 河合まで加わって光一の発言にけちをつけたものの、光一は意に介さない。

「たしかに、俺たちは野球に青春の一部をかけてきたかもしれない。そしてそれは、心残りな結果に終わってしまったかもしれない。それはまぎれもない事実だ。だけど、それで俺たちの青春の全てが終わっちまったわけじゃないだろ。そうさ、俺たちはまだまだこれからのはずだ!」

 熱がこもった言葉を光一は発し続ける。それは山口や河合といったこの場にいる人間に対してというよりは、むしろ彼自身に向けられているかのようだった。

「澤崎……」そのことを察した恵美は、光一を切なげに見つめる。

「だからさ、たかが野球のことでいつまでも自分を貶めるような真似はするなよな。バカみたいだぜ」

 そう言って光一は笑った。それは一点の曇りもない、すがすがしい笑顔だった。

 それを見た山口は愕然としてその場にしゃがみ込み、がくりと頭を垂れる。

「……そんな言葉、とても受け入れられない」うつむいたまま、山口はつぶやいた。「その言葉を受け入れたら、ボクの気持ちはいくらかは楽になるかもしれない。……だけど、それではだめなんだ。いくら言い訳してもボクのせいであることに変わりはないんだから。僕はそのことをキャプテンに、みんなに詫びなければならないんだ。そうしなければ、僕はいつまで経っても立ち直れそうにないから……」

 その時、山口の耳にパシッという心地よい音が響いた。顔を上げると、光一が右手で作った拳で自分の左の手のひらを打ち付けていた。

「じゃあ、一発殴らせろ」静かな声で光一は言った。「それで許してやる」

「澤崎、そんなっ!?」

 恵美は驚いてそんな乱暴な真似はやめさせようとしたが、三島に止められた。

「いいじゃないの、それで互いの気が済むんならさ。まるで大昔の青春ドラマみたいな陳腐な展開で、正直僕もどうかとは思うけどね」

「で、でも……」

 恵美は反論しようとするものの、それを押し止めたのは他ならぬ山口だった。

「……わかった。じゃあ、やってくれ」

 そう言うと、山口は立ち上がって右の頬を光一に差し出した。

「ほら、本人もそれでいいって言っているんだしさ」

 三島は恵美に笑いかけた。もはや彼女には止める権利などなかった。

「じゃあ、いくぞ。歯ぁ喰いしばれっ!」

 そう叫ぶと、光一は拳を振り上げ、山口の頬めがけて打ち下ろす。

 恵美は思わず目を背ける。

 鈍い音があたりに響いた。

 山口は身体をぐらつかせ、そのまま地べたに倒れ込んだ。

 山口はうめきながら頬をさする。そこにはまだ鈍い痛みが残っていたが、幸い歯が折れたり、口の中を切ったりといったことはなさそうだ。

 山口の目の前に光一の右手が差し伸べられた。

 山口はしばらく逡巡した後、その手を取る。

 光一は山口を引っ張って立ち上がらせた。

 山口の瞳から涙がこぼれ落ちてきた。たまらず空いている左手で目頭を抑える。

「おいおい、そんなに痛かったのかよ?」

 心配そうに光一が聞くと、山口は首を振る。

「違うよ……そんなんで泣いているんじゃない……」

「そうか」光一は山口を抱き寄せると、その肩を優しく叩いた。

 二人の間にわだかまっていたものは、すでに消え去っていた。

 恵美はそんな二人の様子を見つめながら三島に言った。

「三島君、最初からこういう結果になることがわかっていて山口君を誘ったの?」

 だったら、最初から教えてくれてもよかったのに……。

「さあて、どうだろうね」三島はしらばっくれたように肩をすくめると、河合に向かって言った。「僕たちも行こうか」

「おう」

 三島と河合はうなずき合うと、光一と山口のところに走っていく。

 三島は山口の背中に飛び膝蹴りを食らわした。

「山口、さっきので澤崎は気が済んだかもしれないけど、僕たちはそうはいかないぞ」

「そうだぜ、オレたちもキャプテンと同じように一発殴らせてもらわないとな」

 そう言いながら、三島と河合は山口につかみかかった。ついでとばかりに光一もそれに加わったため、山口はもみくちゃにされてしまった。しかし、そこに暴力的な陰険さはなく、むしろ互いにじゃれあっている微笑ましい光景のように恵美には感じられた。

「本当にバカだね……」

 そんな彼らの様子を眩しそうに眺めながら、恵美はつぶやいた。自分は男の子たちの戯れには交われそうにないことに一抹の寂しさを感じていた。

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