6章
6章-1
海に行く日はあいにくの曇り空だった。天気予報によると雨の心配はないようだが、あまりすっきりとしない天気だ。だからといって涼しいかといえば、そんなことはまったくなく、とてもムシムシしていた。日中には当然のように気温は三十度を超えるそうだ。同じ暑さでも、太陽がギンギンに照りつけているのならまだ諦めがつくが、こんなはっきりしない天候では苛々が募るばかりだ。そうじゃなくても、光一には苛立たにはいられない要因があった。
「遅い!」ちらりと腕時計を一瞥して光一は舌打ちした。今回の計画の発起人の一人である三島隆宏が、約束の時間になっても待ち合わせ場所である河合学の家に現れないのである。「まったく、言い出しっぺが遅刻するだなんて、いったい何を考えているんだか」
光一は幾度となく腕時計を見ながら、苛立ちを紛らわすように河合家前の道路をぐるぐると歩き回っていた。
「澤崎、少しは落ち着きなさいよね。見ているこっちのほうが苛々してくるじゃないの」ガレージの前でしゃがみ込んでいる恵美が呆れたように言った。「だいたい、遅れているとはいっても、たかだか十分やそこらじゃないの」
「そうだぜ。さっき家に電話をしたら、もうとっくに出たって親が言ってたから、もうすぐ来るだろうさ」同じように河合が言う。彼は車のボンネットに座り(重みで車は前のめりになっている)、教習所でもらった教本で標識の復習をしていた。「それにほら、三島はもう一人連れてくるって言ってたろ。たぶんその相手を迎えに行ってるんじゃないかな」
「それだよ、問題は」光一は足を止める。「お前たち、三島がいったい誰を連れてくるのか知っているのか?」
三日前、海に行く計画を立てていた時、もう一人車に乗せられることがわかると、その人選は自分に任せてほしいと三島は申し出た。当然光一たちはいったい誰を連れてくるつもりなのか聞いたのだが、三島はその日になってからのお楽しみと言うばかりで教えようとはしなかった。
その後、光一は三島と会う機会がなかったため、今日に至るまで追加メンバーのことは知らずじまいだった。もしかすると、二人は聞いているのではないかと思って尋ねたのだが、
「ううん、わたしは知らないよ」
「同じく」
恵美と河合は揃って首を振る。
「まったく、三島のやつは時々何を考えているかよくわからないところがあるからな。もしかしてあいつ、女でも連れ込むつもりじゃないだろうな」
光一は三島が現在、誰かと付き合っているという話は聞いていないが、その候補なら腐るほどいるはずだ。その中から適当に一人見繕って連れてくることも十分考えられる。それで俺たちがいるのも気にせずイチャイチャなんかされたらたまんねぇぞ、まったく。
「それはないと思うけどな」光一の疑念を恵美は否定する。「三島君ってぱっと見、軟派な印象を受けるけど、根はけっこう真面目なんだろうしさ」
「……お前、やけに三島の肩を持つのな」光一は何となく不愉快な気分になった。「前々から気になっていたんだけど、お前って、もしかして三島のことが好きなんじゃねぇの?」
それを聞いた恵美は飛び跳ねるように立ち上がり、烈火のごとく反論した。「な、なにバカなこと言っているのよ! わたしは三島君のことをそんなふうに思ってなんかいないわよ!」
「な、なにムキになっているんだよ……」
その態度こそ怪しいんじゃねぇの――とか光一が思っていると、
「マネージャーの言うの通りだよ」河合が読んでいた教本を閉じて言う。「マネージャーの意中の相手が三島なわけがないじゃないか」
「何だよ、河合まで。まるでこいつが誰が好きか知っているかのような口振りだな」
「そりゃそうさ。野球部の連中なら誰でも知っていることだからね。マネージャーが好きなのは――」
「わ――っ!?」
河合がその名前を挙げようとしたところ、恵美が大声を張り上げた。そのため、光一は河合が何と言ったのか聞き取ることができなかった。
「何いきなり大声出してるんだよ。そんなに俺に意中の相手のことを聞かれたくないのか」
「う、うるさいわね! そんなことはどうだっていいでしょうが。河合君もよけいなこと言わない」
恵美に睨まれた河合は、はいはいと肩をすくめて再び教本に視線を戻した。
「ま、本当にどうでもいいことだけどな。俺には何の関係もないことだし」
そう言うと、光一は再び河合の家の前をうろうろしだした。そのとき、背中越しに「バカ……」と恵美がボソリと言う声が聞こえたように思えたが、気のせいだろうか。
「ん?」
光一は道の向こうから走ってくる二つの人影に気がついた。そのひとつは三島だった。
「いやあ、すまない。待たせたね」
到着した三島は、息を整えながら仲間たちに軽く頭を下げた。
「ほんとだぜ。発起人のくせに遅刻なんかしやがってよ」
などと恨みがましく言う光一を恵美は押しのけ、
「ううん、そんなことないよ。みんな今来たところだからさ」
「そうか、それはよかった」
三島はあははと爽やかに笑った。恵美の後ろでケッと舌打ちしている光一の存在は無視された。
「いやー、彼を誘いに行ってたらちょっと時間がかかってしまってね」
三島はそう言って横を向く。だが、そこには誰もいない。三島が連れてきた相手は彼の後ろに隠れるようにしていた。
「おいおい、何しているんだ。みんなに朝の挨拶くらいしようぜ」
そう言うと、三島は相手の肩を押して光一たちの面前に立たせた。それは光一が懸念していたような三島とイチャイチャする女ではなく、彼らがよく知っている相手だった。
「山口君……」驚いたように恵美がその名前を呼んだ。
一六〇センチの恵美と比べてもあまり身長は変わらず、八の字眉毛や垂れ気味の目が見るからに気が弱そうな印象を与える。いかにも坊ちゃん刈りが似合いそうな風貌だが、今は光一たちと同じく伸びかけの坊主頭をしている。――同じ野球部員だった山口武史だ。
「……おはよう」山口は頭を下げると、消え入りそうな声で言った。
「う、うん、おはよう」
恵美も挨拶を返したものの、今は目の前の山口より後ろにいる光一のことが気にかかっていた。
振り向いて光一の様子を窺うと、その顔は無表情で、何を考えているのか伺い知ることができなかった。
「…………」
「…………」
光一と山口は向かい合ったまま無言だった。互いに挨拶を交わすこともなく、視線も微妙に逸らしている。気まずい空気があたりを包みこんでいた。
「キャ、キャプテン……」
そんな空気を打ち破ろうと山口が光一に声をかけようとしたところ、
「河合、全員そろったぞ。そろそろ行こうぜ」光一は山口から背を向けて河合に言った。
「あ……ああ、そうだな。時間も押していることだし」
河合はその場の空気の悪さから逃れるようにそそくさと運転席に乗り込んだ。光一もその後に続く。
山口は行き場なくした言葉を宙に漂わせたまま呆然としていた。
「山口君……」
そんな山口に、恵美は心配そうに声をかけようとしたものの、
「……いいんだ」山口はそう答えると、車へと向かった。
その背中を困惑気味に見送った恵美は、側にいた三島の腕を引き寄せ、小声で問い詰める。「三島君、どうして山口君を連れてきたのよ?」
「何かまずかったかい? 同じ野球部同士だから、気心が知れていていいと思ったんだけどな。それとも、女の子を連れてきてイチャイチャしたほうがよかったかな?」
「ふざけないで。さっきの澤崎と山口君との間の気まずい空気は感じたでしょ。今、あの二人を引き合わせるのはまずいよ。だって……」
澤崎自身は否定したけど、きっと澤崎は山口君のことを――
「星野さんの言いたいことはわかるよ。僕だって、澤崎が山口に対してどういう感情を抱いているか知らないわけじゃないし」
「だったら――」
「おい、お前ら何ぐずぐずしているんだよ。置いていくぞ」後部座席の窓から光一が顔を出して二人に言う。
「今すぐ行くよ」三島は軽く手を振って光一に答えると、恵美に向かって小さな声で言った。「大丈夫。万事うまい具合に収まるって」
そして恵美を置いて車の方に歩いていった。
恵美は三島の言葉に納得しかねたが、今さら海に行く計画を中止するわけにもいかず、不安を抱えたまま車に乗り込んだ。
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