5章-3

「澤崎! 三島君!」

 そんな重苦しい空気を破るように、二人を呼ぶ声が聞こえてきた。確かめるまでもなく、二人にはその声の主がわかった。元マネージャーの星野恵美だ。

「新山君から話は聞いたよ」恵美は二人のもとに駆け寄ると、荒い息を整える間もなく言った。

 恵美は、野球部が午後になってもまだ練習を続けていることには窓から見ていて気づいていた。聞こえてくる声でノックをしているのが光一であることがわかり、恵美は気になって講習が終わると真っ先に部室へと向かった。そこで、光一に殴られて頬を腫らしている新山の姿を見つけた。彼女は彼から何があったのか聞き出すと、すぐさま二人を追ってここまで走ってきたというわけである。

「それで、僕らを叱りに来たのかい?『後輩に暴力を振うだなんてけしからん!』ってね」

 光一は恵美が来ても相変わらず無言のままなので、彼の代わって三島が軽口を叩いた。

「違うよ」恵美は首を振る「だってわたしも話を聞いたら頭にきちゃって、思わず新山君にビンタしちゃったもの。まったく、近頃の若い者は先輩のことを何だと思っているんだか!」

「そいつはすごいね……」

 頬を脹らませて怒っている恵美に、三島は半ば呆れ、半ば感心した。

 恵美がこうして怒っているということは、新山が「僕は何もしていないのに、澤崎先輩が有無を言わさず殴ったんです」なんて自分たちに都合のいいことを言ったりはせず、事実をそのまま話したのだろう。このことといい、部室での山口に対する言動といい、新山はよくも悪くも正直なやつなのだろう。「後輩のくせになまいきだ」として、先輩からはあまり快く思われていなかった新山ではあるが、そういう率直なところが同期や後輩の部員たちから共感を得て、新たなキャプテンに選ばれたのかもしれない。

「澤崎、大丈夫?」

 恵美は心配そうに光一に声をかけたが、彼は背を向けたまま反応しない。彼女はさらに話しかけようとしたものの、三島が制した。

「今はそっとしておいたほうがいいと思うよ」

「だけど……」

 恵美は反論しようとしたものの、結局は三島の忠告に従った。どうせ自分ができるのはつまらない励ましくらいしかなく、そんなものでは今の光一を振り向かせることなんて、とてもできそうにないと思ったから。

 とはいえ、恵美は三島のように何もせず見守っていることはできなかった。彼女のお節介は、何か自分にできることはないか、どうにか元気づけられないかと、光一の後ろを歩きながら必死に考えていた。

 何かないの? 何か、何か、何か――

「あっ」不意にある思いつきが頭に浮かび、ポンッと手を叩く。

 恵美は駆けて光一の前に回り込むと、前へと回り込み、彼が引いていた自転車のカゴをつかんで動きを止めた。そして、光一と三島に向かって言った。

「ねえ、海に行こうよ!」

「「……はあ?」」

 恵美の唐突な提案に、男二人は呆気に取られた。いったい何を言い出すかと思いきや……。

「今は夏の真っ盛りよ! 夏といえば海! 海こそ夏の若者の聖地! 海に行かずして夏を語るなかれ! ――というわけで、みんなで海に行こうよ!」

 一人で盛り上がっている恵美を、三島は「ちょっと……」と言って近くの電柱の陰まで引っ張っていった。そして、小声で言う。

「いったいどうしたっていうんだよ? いきなり海だなんて」

「だって、澤崎のやつが元気なさそうだったから、どこかに連れて行って気分転換させたらいいんじゃないかと思ったのよ」

「その考えはわからないでもないけどさ。でも、何で海なわけ?」

「いや、何となく……。ほら、さっきも言ったように夏と言えば海だし」

「…………」

「……三島君、呆れてる?」

「いや、別に呆れちゃいないけどさ。だけど、いくらなんでも唐突すぎるんじゃないかな? それに、あいつを海に連れて行ったところで何の解決にもなりはしないと思うし」

「だけど、気休めくらいにはなるでしょ」

「そりゃそうかもしれないけどさ……」

「ねえ、三島君も協力してよ。澤崎に一緒に海に行くようにってさ。三島君だって、肩を冷やすといけないからって、ここ何年も泳いでいないでしょ? でも、もうそんな心配する必要なくなったんだからいいじゃないの」

「しかしだねぇ……」

「それに、海には三島君が大好きな水着ギャルがわんさかいるよ」

「……星野さん、僕がいつもその手の誘惑に乗せられると思ったら――」

「ビキニだよ、ハイレグだよ、お好みならスクール水着だっているよ」

「…………」

「どう、協力してくれる?」

 三島はつかつかと光一のところに戻っていった。そして、光一の肩をがっちり掴んで力説する。

「澤崎、海へ行くぞ! 残り少ない夏を海でエンジョイするんだ!」

 そうそう、それでこそ三島君だよ!

 恵美は嬉しそうにうなずくと、自身も光一のもとに駆け寄って説得し始めた。

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