4章-2

 グラウンドに入ろうとした三島は、「さっこーい!」という野球部が守備時に使うかけ声が聞こえてくるのを耳にした。

 三島はどこかの家から高校野球のテレビ中継の音が流れてきているのかと思った。グラウンドの近くにいるのだから、まっさきに野球部が練習をしていると考えるのが普通だろうが、彼は野球部の連中はもうとっくに練習を切り上げているものと決め込んでいたため、その考えはまったく思い浮かばなかった。

 だが、そのかけ声は紛れもなく練習をしている野球部員のものだった。彼らはシートノックを行っていた。それぞれのポジションに散っている選手たちに鋭い打球が次々と飛んでくる。

「うわっ、こんな暑い時間帯まで練習しているとは、気合いが入ってるな」三島は後輩たちの姿に驚きを隠せなかった。「それにしても、安田先生(野球部の監督)、あんな豪快なノックをしたっけかな?」

 その三島の疑問はすぐに氷解した。

「なにトンネルしているんだ! 取れないにしてもせめて前に落とすようにしろ! そうすれば、まだアウトにできるチャンスはあるからな! いいか、死んでも後ろには逸らすんじゃないぞ!」

 バットを持っている人間が大声で叫んだ。その声で三島はノッカーが光一であることを知った。

「何しているんだ、あいつ……」

 すでに用済みになったはずの白い練習用ユニフォーム姿の光一を見て、三島は唖然とした。

「次、レフト行くぞ!」

 そう言うと、光一は宣言通りレフトに打球を放った……つもりだったが、ボールはバットにかすっただけで足下にボテボテと転がった。ホームベース手前で止まったボールを見つめる光一と後輩部員たち。気まずい沈黙。

「キャッチャー、ボケッとするな!」

 光一は場を繕うように怒鳴ると、バットでキャッチャーの尻を叩いてせっついた。

「暑いのに元気だねぇ……」そんな光一を見て、三島は苦笑いした。

「次! センター!」

 光一は打球を放った。さっきとは違いジャストミートだったが、今度は飛びすぎた。打球はセンターのはるか頭上を飛び越えていく。

 ボールは数回バウンドして、三島がいるところまで飛んできた。彼はそれを素手でキャッチする。てのひらに古びた硬球の堅さが伝わってくる。ほんの数週間前まで飽きるほど触れていたはずなのに、とても懐かしく感じられた。

 ボールを追っていた部員が手を挙げて返球を求めている。

 それを見た三島は、よからぬことを思いついたように不敵に笑った。

 三島は利き腕である左手にボールを握ると、二、三歩ステップしてから大きく振りかぶって送球した。

 ボールは光一が打った打球同様、センターを守っていた部員のはるか頭上を通過していった。そのまま二塁ベースの脇を抜け、マウンドの上を通過し、ノーバウンドでキャッチャーのミットにストライクで収まった。

「よしっ!」

 三島は小さくガッツポーズした。彼は予選七試合で千五百球以上を投げたため、正直肩には若干の不安があったのだが、今の送球を見るかぎり何の問題もなさそうだ

「三島だろ、そこにいるの!」三島の存在に気付いた光一が叫んだ。「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て手伝えよ!」

 どうやら光一は、三島がその申し出を拒絶するとは露ほども思っていないようだ。

「やれやれ……僕はこれから水泳部の練習を見学にいくつもりだったんだぞ」

 そうぼやきながらも、「ま、いいか。水着ギャルは夏の間は逃げやしないからな」と自らを納得させ、三島はダッシュで光一のもとへと走っていった。その足取りは、思いのほか軽やかだった。

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