4章

4章-1

 その日も朝から気温が三十度を超え、正午には暑さは最高潮に達した。これで何日連続の真夏日なのか、もはや数える気力も失せてしまう。

 そんな灼熱の世界の中で元気なのはもはやセミくらいのもので、犬や猫などは照りつける太陽と自身の毛皮のためにぐったりしてしおり、せめて直射日光だけは避けようと犬小屋の陰や家の軒下に避難していた。

 それに比べて人間はなんて恵まれているのだろう。この暑さを自らの生み出した科学の力で解消できるのだから。部屋のエアコンのスイッチを入れるだけで、そこはあっという間に快適な空間だ。偉大なるかな、科学文明!

 だが、三島隆宏はそんな文明の利器を拒絶するかのように外へと飛び出した。彼とて本当ならこんな暑い最中に外に出たくはないのだが、家でごろごろしていると親に仕事を手伝わされかねないため(三島の家は小さな洋食屋を経営している)、学校が夏休みに入ってからというもの、店が忙しくなる昼時には家から逃走することにしていた。

 とはいえ、こうして炎天下の中を汗だくになって歩いていると、冷房の効いた店内でウェイターをしていた方がまだましだったんじゃないかと思えてくる。

 額に浮かんだ汗を、やはり汗で濡れている腕で拭いながら三島は前方を見据えた。視界の先には小高い丘がそびえており、その上には通っている高校の灰色の校舎が鎮座している。彼の家からはほんの五分ほど歩いただけでここにたどり着いてしまう。おかげでこれまで遅刻をしたことはない。

 ここから丘の脇を抜けて繁華街のゲーセンや本屋に繰り出してもいいのだが、三島の足は丘をまっすぐ貫いている坂道の方へと向けられた。

 彼にとって学校は暇をつぶすのに最適な場所だった。図書館では本を読みながら涼めるし、講習期間は学食も開いているので安く昼飯を済ませることができる。それになにより、女子運動部の練習を覗く……もとい、見学もできるしと、いたれりつくせりだ。ただ、講習に参加しようという気だけはまったく起きなかったが。

 日光が容赦なく照りつける過酷な環境の下、坂道をえっちらおっちらと登っていた三島は、数日前に同じように学校に行った時のことを思い出していた。

 その日、学食内の自販機で買ったまずいコーラをちびちびやりながら体育館の陰から体操部の練習風景を眺めていた三島は、ふと野球部やサッカー部の練習が終わって誰もいないはずのグラウンドに目を向けたところ、誰かが歩いてくることに気がついた。その人物はホームベースのあたりで立ち止まり、バッターボックスに入る。どうやら脳内で試合を状況を再現しているようだ。

 距離があるため、バッターの顔まではわからないが、三島はその正体が光一であると見抜いていた。今、そのような真似をするのは彼以外にはいないだろうと思ったから。

 三島には認識できなかったが、どうやら架空のピッチャーが振りかぶり、ボールを投じたようだ。光一がスイングする。そこで三島は右手を振り上げ、「ストライク! バッターアウト!」とジャッジした。

 それによって光一は三島の存在に気がついたようだ。体育館の方へとやってきた光一は、変なところを見られてしまい、ばつが悪そうにしていた。かわいそうなので、この件でからかうのは勘弁してやることにしよう。

 それから二人は体育館の陰で涼みながら話をした。光一は早々に練習を切り上げた後輩たちにご立腹だった。三島としては、暑いんだから別にいいじゃないかと思ったものだが。

 三島には、光一がいまだにあの決勝戦のことを気にしているように見受けられた。彼としても、たしかに甲子園に出場できなかったのは残念ではあったが、自分たちがあそこまで行けたこと自体が奇跡みたいなものだったわけだし、それに全力を出し尽くした結果なのだから悔いはなかった。だが、光一はそう簡単に割り切ることができずにいるようだ。だからこそ、三島を含めた他の部員たちが、すでに割り切ってしまっているように感じられ、裏切られたと思ったのだろう。

 そんな中、山口に対してはまた別の感情があるように三島には見受けられた。その理由については何となく想像はつくが。

 覗いていることが新体操部の女子たちにばれ、追われるようにグラウンドを去った後、二人はゲーセンにでも行こうかという話になったところ、そこに野球部のマネージャーだった星野恵美が現れた。毎度ように恵美と言い争いを始めた光一に、三島は急用ができたからと告げ、一人で帰ることにしたのだった。

 あの後、二人はどうなったんだろうな? まあ、あの二人のことだ。いい雰囲気になったりなんて展開には成り得ないだろうけども。

 あの日、三島には本当に急用があったわけではない。二人に気を使ったのである。

 ――星野恵美は、澤崎光一のことが好きだ。

 どうしてそうなのかは当人以外に知るよしもないことだが、まず間違いないだろう。恵美の光一に対する態度は、他の部員のときとは明らかに違っていたから。光一だけ君付けで呼んでいないことにしてもそうだし、誰よりも口うるさく言うのもきっと愛情の裏返しなのだろう。好きなんだけど、素直になれないという、お決まりのやつだ。

 三島だけではなく、他の野球部員もほとんどが恵美の想いには気付いているに違いない。なんせ彼女の態度は、ラブコメマンガのヒロイン並にわかりやすいものであったから。

 ……知らぬは肝心の澤崎だけか。あいつはその手のことには鈍感そうだからなぁ。

 そう思っていた三島だったが、ふと脳裏にある疑問が浮かんだ。澤崎のやつ、本当に星野さんの好意に気付いていないのだろうか?

 もしそうなら、その鈍感ぶりがこれまたラブコメマンガの主人公のようだと、若干の苛立ちを覚えながらも笑って済まされるところだが、わかっていながら素知らぬふりを決め込んでいるのであれば、それは度し難いことに思えた。

 ……澤崎、お前がいつまでもその気がないのなら、僕が星野さんを奪っちまうぞ。

「…………」

 真剣にそんなことを考えている自分に気付き、三島はぶるぶると激しく首を振る。いかんいかん、僕らしくもない。

「さて、と。今日は水泳部の練習でも見学するかな。たわわなバストにむっちりとしたヒップ、そして白いふくらはぎー。うひゃー、たまんないね」

 三島はわざわざ声に出して言ってみた。うん、これこそ僕らしい。

 そうと決まれば、善は急げだ。

 坂を登り切って校内に入った三島は、他の三年生が懸命に受験勉強に励んでいるであろう校舎の脇を抜け、グラウンドへと向かった。目指すプールはグラウンドのさらに奥だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る