3章

3章-1

 性的な視線に晒されて怒り狂ったアマゾネス軍団が、こん棒(手具のクラブ)を振りかざして襲いかかってくる前にそそくさと体育館前から退散した光一たちは、グラウンドの中を通り抜けて校舎前までやって来た。そこで二人が目にしたのは、正面玄関から溢れるように出てくる生徒の姿だった。どうやら本日の補習は終わったようだ。

 駐輪場から自転車を取ってきた光一は、徒歩で来ていた三島と共にしれっと下校の列に加わった。いかにも「ボクたち、真面目に補習を受けてました」と言わんばかりだが、白いワイシャツの男子と、赤いリボンが眩しいセーラー服の女子の群れにあっては、私服姿の二人が黒い羊であるのはバレバレだ。

 光一は歩きながら野球部の連中がいないか探してみたものの、混雑しているためか誰も見つけることができなかった。

「ところで三島、お前は補習に出なくてもいいのか?」

 と光一が三島に尋ねたところ、

「さっきも言ったろ、暑い最中にやっても能率は上がらないってさ。それは部活だけじゃなく、勉強も一緒さ。僕は受験勉強は涼しくなってから本格化することにしているのさ」

「ふーん……」

 もともと三島はテストで常に上位の成績を取っているような秀才だからそんな悠長なことを言っていられるのだ。

「そういう澤崎はどうなんだ?」

 今度は三島が尋ねる。光一はといえば、進学校に席を置いているくらいだから地頭は悪くないはずだが、テストの順位は下から数えた方が早いくらいだ。本当なら補習に出るべきなのだろう。

「でもなぁ……」光一はちくちくする頭を掻きながら、「今は受験勉強にかぎらず、何もやる気が起きないんだよな。なんていうか、頭の中がモヤモヤしているというか……」

「あー、わかるわかる」三島はうんうんとうなずく。「それって僕らの年頃にはよくあることだからね。何をしていても、脳裏には常に淫らな妄想が――」

「ちげーよ!」

 光一は間髪入れずに否定しあ。自分の高尚な悩みを、そんな桃色思考で片付けられてはたまったものではない。とはいえ、その〝モヤモヤ〟とやらの正体が何なのか、自分でもうまく説明することができずにいるのだが……。

「とにかく、今はやる気が出ないんだよ!」

 光一は吐き捨てるようにそう言うと、無理矢理この話題を打ち切った。

「そうか。じゃあ、このまま家に帰っても暇なわけだ?」

「まあ、そうだな」

「だったら、これから駅前に繰り出さないか? 冷房の効いた涼しいゲーセンで格闘ゲームに熱くなって、そのモヤモヤとやらを吹き飛ばそうじゃないの」

「ゲーセンねぇ……」

 正直、光一はあまり乗り気がしなかった。ゲームにのめり込むことによっていくらか気分は発散されるかもしれないが、同時にただでさえ心許ない財布の中身もきれいさっぱり発散されてしまうだろうから。

 ……それに、そんなのはしょせん、現実逃避でしかないだろうし。

 それでも、こちらを気遣って誘ってくれた三島には感謝したかった。

「まあ、いいか。どうせ家に帰ったところで何をするってわけでもないしな」

 どうせこいつは脱衣麻雀のHボタンを連打するのに夢中で、連れのことなんかお構いなしになるに決まっているだろうけども。

「なあに? 補習をサボったあげくゲーセン?」

 乗り気になっていた光一の背中に、水を差すような非難がましい声が浴びせられた。はっとして彼は振り返る。

 そこにいたのはセーラ服姿の女子生徒だった。跳ねるような短めのポニーテールや、日焼けサロンでは出せない健康的な焼け方をした肌が、見るからに活発な印象を与える。顔の造型は美少女といっても差し支えないほどに端正だが、互いの眉が接触しそうなほど眉間は顰められ、瞳は鋭角につり上がり、口は文字通り〝への字〟に歪んでいる。――端的に言って、不機嫌極まりない様子だ。

「……星野かよ」予想通りの相手が仁王立ちしているのを見て、光一はたまらず舌打ちを漏らした。

 三年前、野球にマネジャーとして入部した星野恵美は、一緒に入った光一や三島といった選手以上に先輩たちから歓迎された。

「創部以来、女っ気ゼロだった我が野球部にも、ついに念願の女子マネージャーが!」

 野球部にかぎらず、運動部の男子たちにとって、女子マネージャーという存在は、甘酸っぱい青春を形成するのに欠かせない重要な要素のひとつなのである。

 ユニフォームを洗ったり、タオルを汗で拭いてくれたりとかいがいしく世話をしてくれる女子マネージャー。女子マネージャーの作ってくれる愛情のこもったおにぎり。試合中は熱い声援を、試合後には温かな励ましの言葉をかけてくれる女子マネージャー。そして、女子マネージャーとの淡い恋……。

 野球部の面々が狂喜乱舞したのも無理のない話である。

 だが、部員たちは自分たちの思考が甘酸っぱいどころか甘い考えであることをすぐに思い知らされることになる。恵美は学食のオバチャン並に口やかましく、常に竹刀を手放さない体育教師のごとく厳格な人間であったのだ。

 彼女の手入れによって、さながらゴミ屋敷のようだった部室はびっくりするほどきれいになったのはいいが、代々受け継がれてきたエロ本や、壁やロッカーに張られていたピンナップの類は容赦なく処分され、トランプや花札等の娯楽の持ち込みは全面禁止となり、男の聖域はおおいに毀損されてしまった。

 道具類は厳重に管理され、新しいボールひとつ出すにも彼女の許可が必要だった。練習後にボールの数が合わないものなら、部員総出でグラウンドの隅から隅まで徹底的に捜索させられた。

 表計算ソフトによって一人ひとり綿密に組まれた練習スケジュールは、過少や超過なく実行することが求められた。体調も徹底的に管理され、毎週月曜日には全部員の身長、体重、BMI、筋肉率、脂肪率等が測られ、その推移は部室の壁に張り出された。着替えの度に己の名前が冠された折れ線グラフを見せつけられ、皆げんなりしたものだ。

 試合中、ちょっとでも気を抜けたプレーをしようものならベンチから容赦なく彼女の罵声が飛んできた。相手チームへのヤジなどなかなか堂に入ったもので、その鋭い舌鋒が自分たちに向けられたらと思うとぞっとせずにはいられない。

 部員たちは映画の鬼軍曹ばりに苛烈な恵美に半ばげんなりしながらも、彼女の言うことには素直に従い、頼りにしていた。なんだかんだいって、恵美はマネージャーとして優秀であったから。

 恵美の厳しさはキャプテンの光一にも容赦なく向けられた。部員の不始末はキャプテンの責任であるとばかりに、他の誰にも増して光一には激しく突っかかってきた。光一は光一で、マネージャーごときにでかい面をされるのは面白くないという感情もあってか、事ある度に二人は対立し、衝突を繰り返していた。

 そんな竜虎相搏つ事態に、部員たちは戦々恐々としながら、

「キャプテンとマネージャー、野球部で一番の権力者はどっちか?」

 という議論を交わしたものだ。なお彼らの結論は、全会一致で「そりゃあ当然、マネージャーの方だろうな」ということだった。

 最後の試合が終わって三年生は野球部を引退し、二人はキャプテンとマネージャーという関係ではなくなった。だが、今でも互いに天敵であるという認識は変わらないようである。

「久しぶりね、澤崎。あと三島くんも」恵美は二人を睨みつけて言った。「あなたたち、補習も受けていなかったくせになんで学校にいるわけ? そもそも、なんで私服なのよ。学校では制服を着用のことって生徒手帳にも書いてあるでしょうが」

「うるせえなぁ。引退してもなおマネージャーきどりかよ」苛立たしげに光一は言った。他の野球部の連中は見当たらないというのに、なんでこいつとは出会っちまうんだ。

「たしかに、わたしはすでに部活を引退した身だけど、それでも籍を置いていた以上、部に対して責任というものがあるわ。それは澤崎、あんたも同じよ。前キャプテンが学業不振で留年なんて事態になったら、野球部末代までの恥だわ。後輩たちも肩身が狭いわよ」

「俺の成績はそこまで悪かねえよ!」

「さーて、どうだかね。自分の成績表の内容すら理解できないほど頭がよくないだけなんじゃないの?」

「何だと、このぉ!」

「何よ、やるつもり?」

 二人は睨み合った。これがマンガだったら、互いの間にバチバチと激しい火花が飛び散っていることだろう。

 三島はとばっちりを受けない程度に距離を置いたところで、「やれやれ、また始まったよ」と言わんばかりに大げさに肩をすくめた。

「澤崎、僕はちょっと急用を思い出したよ」突然、三島は光一に言った。「悪いけど、ゲーセンはまた今度にしてくれないか?」

「は? 何をいきなり――」

「それに、星野さんはお前に言いたいことがあるみたいだからさ」

 こいつの言うことなんざ何ひとつ聞きたくないと思う光一だったが、三島は彼の気持ちなどお構いなしに、

「星野さん、少しは手加減してやってよね。――それじゃあ」

 と言うが早いか、二人に背を向けて足早に去っていった

「じゃあね、三島くん」

 恵美が三島の背中に向かって言うと、彼は背を向けたまま手を振って応じる。三島が生徒の群れの中に消えてしまうまで見送ると、恵美は改めて晶の方を向いた。その表情はかすかに微笑んでいたが、光一にはそれが獲物を前にした肉食獣の不敵な笑みにしか見えなかった。

「なんで俺だけ……」

 事態の理不尽さに憮然とする光一だった。

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