3章-2

「ちゃんと受験勉強はしているの? 補習に出ないつもりなら、せめて家ではしっかりやらなきゃ駄目だからね」

 恵美は歩きながら口うるさく言ってきた。

「わかってる」

 光一は面倒臭そうに返事をする。隙あらば引いている自転車に飛び乗って逃げ去りたいところではあったが、敵もさるもの、リアキャリアをしっかり掴んでそうはさせじという構えだ。

「進路はもう決めた? 早いところを志望校を絞って、案内書を取り寄せないと間に合わなくなるからね」

「わかってる」

「いくら夏休みだからといって、昼間で寝ていたらだめだよ。長い休みの期間こそ、きちんと正確を立てて、規則正しい生活をしないと」

「……わかってる」

「暑いからって、冷たいものばかりとっているとお腹を壊すわよ。夏バテにならないよう、三食しっかり食べないと」

「…………」

「あと、野菜も食べなきゃ。暑いときこそビタミンを――」

「わかってるって言ってるだろうが!」

 いいかげん我慢ができなくなり、光一は怒鳴った。何か悲しくて食生活のことまでとやかく言われなくてはならんのか。

「何よ! 人がせっかく心配してあげているっていうのにさ。そんな言い方ってないんじゃない?」恵美もすかさず言い返す。

「それが余計なお世話だって言っているんだろ! お前はいつだって俺に対してグダグダグダグダ口うるさく言いやがって。お前は俺の女房かよ!」

「な……!?」

 光一の発言に恵美は鼻白んだ。すぐさま言い返そうとするものの、言葉が出てこず、口をぱくぱくさせる。やがて発した「バッカじゃないのっ!」という声も裏返ってしまった。不機嫌そうにそっぽを向くと、さっきまでの口うるささが嘘のように黙り込んでしまう。

 恵美の喧しさに閉口していた光一だったが、いざ静かにされるとそれはそれで居心地が悪かった。彼としても、とっさに出た発言とはいえ、「いや、女房はねえよな……」と思わずにはいられなかった。

 さっさと家に帰りたい気分になっていたが、恵美はいっこうにリアキャリアから手を放そうとしないので、それもかなわない。勘弁してくれよ……と思う光一だった。

「――さっき、グラウンドにいたでしょ?」

 不意に恵美が言った。これまでとは違い、静かで落ち着いた調子だ。

「……なんで知ってるんだ?」警戒した様子で光一は訊き返す。

「補習を受けているとき、教室の窓からちらりとグラウンドの方に目を向けたら、バックネットのあたりに人影が見えたからさ。遠くて顔まではわからなかったけど、もしかしたらあれは澤崎だったんじゃないかと思ってね」恵美はそこまで言うと、かすかに目を細める。「その反応を見ると、やっぱりそうだったみたいね」

「…………」

 ……ということは、星野もあれを見ていたということか。

 三島に自分が空想の相手と野球をしていたところを目撃された時のばつの悪さが蘇ってきた。三島は光一に気を遣ってくれたのか、単に興味がなかったのか、その件については何も言ってはこなかったが、恵美はそうではないようだ。しつこいまでに追求してくる。

「グラウンドでいったい何をしていたの?」

「何って……そう、新体操部の練習を覗き見していたんだよ。やっぱ女子のレオタード姿はたまんねぇよな!」そう言うと、光一はぐへへ……と下卑た笑いを浮かべる。

 そんな光一に恵美は眉を顰めるでも、「不潔っ!」と嫌悪感を見せるでもなく、

「それは三島君でしょ」と、平然と受け流した。

「……まあな」

 せっかく話題を逸らすためにふざけてみせたのだから、もう少し乗ってきてほしいと思う光一だった。

 恵美は野球部のマネージャーをしていたこともあり、三島の悪癖を知っている数少ない女子のひとりだった。だからといって、それで三島を軽蔑したり、避けたりするでもなく、「まあ、犯罪になるようなことをしなければ別にかまわないでしょ。それと、わたしの着替えを覗かないかぎりはね」といたって寛大だった。

 ……そのくせ、俺相手にはやたら手厳しいんだよな。なんでだ? もしかして星野のやつ、三島のことが好きなんじゃねえの?

 そんな邪推をしている光一に、恵美は何気なく訊いた。

「もしかして、未練があるの?」

 その言葉に、光一の体がびくりと反応した。

 恵美はさらに言う。「澤崎、あんたは引退してもなお野球に未練があるから、夏休みだっていうのにグラウンドまで足を運んだり、バッターのまねごとをしていたんじゃない?」

 ……未練?

 その問いに、光一はしばし逡巡するように黙り込んだ後、「……当然だろ」と押し殺した声で答えた。

「もう少しで甲子園だったんだぞ。夢にまで見た甲子園にあと一歩で行けたかもしれなかったんだぞ。未練がないわけ……ないだろ」

 そうだ。ここ数日、自分が抱えている〝モヤモヤ〟の正体は〝未練〟だ。それこそが、この炎天下の中、自分をグラウンドへと足を運ばせたのだ。

「……だとしたら、どうだっていうんだ? 俺のことを笑うか? 男のくせに、いつまでも終わったことを引きずっていて無様だってあざ笑うか?」

 自嘲気味に光一は言った。そうとも、笑いたければ勝手に笑いやがれ!

 しかし、恵美は首は振り、

「笑わないよ。だって、わたしも同じだから……」

 恵美もあの日、記録係としてベンチの中におり、一緒にあの悔しさを体験した同士なのだ。光一の抱いている未練は彼女も共有していた。

「でもね」その上で恵美は言う。「いつまでもその未練を引きずっているわけにもいかないでしょ。悔しいけれど、それはすでに終わってしまったことなんだからさ。あの日の出来事は思い出として片付けた上で、わたしたちは先へと進んでいかなくてはいけないんだと思う。それがきっと、生きていくってことなんだろうからね」

「…………」

 ……こいつも三島と同じようなことを言うのな。

 きっと他の野球部の仲間たちも、新たな一歩を踏み出すために補習に参加したり、車の免許を取りに行ったりしているのだろう。

 このままではいけないことくらい、光一も十分わかっていた。ゆえに、訳知り顔でそれを指摘されると苛つかずにはいられなかった。

「知ったようなこと言うなよな!」吐き捨てるように光一は言った。「俺と同じ未練を抱えているだって? 笑わせるな。お前はただベンチに座って、スコアブックにKだのHだの記入していただけだろうが」

 それはまるで、マネージャーは選手より格下の存在だと言っているかのようで、侮辱もいいところだ。光一も自分の発言が八つ当たり以外のなにものでもないことはよくわかっていた。

 そんなことを言われたら、恵美は当然の如く怒り狂い、こちらの何倍も罵倒し返してくるに違いないと思っていた。マネージャーという仕事に誇りを持っている彼女ならごく当然の反応だろうから。

 だが、意外にも恵美は何も言い返してはこなかった。無言で光一を見つめている。その表情はこの上なく悲しげだ。

 その思いがけない反応に光一は戸惑ってしまった。……そんな目で俺を見るなよな。これなら、怒鳴ってくれた方がどれだけこちらの気が楽だったことか。

「……これは別に、お前に対してだけ言っているわけじゃないんだぜ。しょせん、誰も俺の気持ちなんて誰も理解できっこないのさ」

 後ろめたさを誤魔化すためだろうか、光一は己の心情を吐露し始める。

「俺はあの瞬間にバッターボックスにいたんだ。俺の一発で勝負を決めてやろうと打つ気満々でな。……いや、違うな。本当は心のどこかで自分は打てないんじゃないかと思っていたのかもしれない。なんせあの日は全然タイミングが合っていなくて、それまでノーヒットだったからな。でも、ダメでも別によかったんだ。逆転打を打って甲子園出場を果たせたら万々歳だけど、たとえ凡退したとしても、それはそれでかまわなかった。俺はただ、あの打席をまっとうしたかったんだ。自分の三年間の野球生活を締めくくる、納得のいく結末がほしかったんだ」

 それなのに――

「俺にはその機会すら与えられなかった。自分の気持ちにけりを付ける前に、突然試合は終わっちまった。自分のあずかり知らぬ形でな」苦々しく奥歯を噛み締める。「あんなハンパな終わり方じゃ、とてもじゃないけど納得できねえよ。自分の三年間やってきたことの締めがあれじゃ、終わったこととして片付けるだなんてできやしない。他の連中はどうなのか知らないけど、あの時バッターボックスにいた俺は、いまだに夏を終わらせることはできそうにないんだ」

 ……俺、なんでこんなことを星野に話してしているんだろう?

 自分で話しながら、光一は困惑せずにはいられなかった。

 こいつに弱みを見せたりなんかしたら、後で何を言われるかわかったもんじゃないっていうに。……いや、今はそんなことはどうだっていい。こんなくだらない話を長々と聞かされて、星野のやつはさぞや迷惑しているに違いない。

 恵美はしばし沈黙していたものの、やがてためらいがちに尋ねた。

「山口君のこと、恨んだりしているの?」

 なんせ山口は、あんなハンパな終わらせ方をさせた張本人なのだ。光一がそんな感情を抱いていたとしても不思議ではないと思ったのだ。

「それはない!」

 光一は反射的に否定した。その声はほとんど怒鳴り声に近かった。

 想定以上の苛烈な反応に、恵美はびくりと体を震わせた。やがてすまなそうに、

「……ごめん。わたし今、変なこと言ったね」

 謝られた光一も困惑していた。本当なら、自分たちのチームワークを侮辱するようなことを言った恵美を非難してしかるべきなのに、どうしてもそういう心情にはなれずにいた。……どうしてだ?

「俺が山口を恨んでいるだなんて、そんなことあるわけないだろ。ミスしたチームメイトを励ましはすれど、恨むだなんて、そんな真似ができるわけないじゃないか。それに、自分の夏を終わらせられないでいるのは、あくまで俺自身の問題なんだ。山口は何の関係もない。……そうさ、関係ないんだ」

 光一は、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を連ねていく。

 そんな光一を、恵美は黙って見つめていた。その心配そうな視線が今の光一には耐え難かった。

 光一は恵美に背を向けると、これまで引いていた自転車に飛び乗った。

「話はもういいだろ。俺はいいかげん帰るからな」

 ぶっきらぼうに光一は言った。これまで彼を束縛していたリアキャリアを掴んでいる恵美の手は、さっき彼が怒鳴った時に離されていた。

 恵美は制止するでも、再びリアキャリアを掴むでもなく、

「うん……またね」と素直にうなずいた。

 光一は、恵美の気が変わらない内にとばかりに勢いよくペダルを踏み込み、自転車を走らせた。

「澤崎!」

 光一が数メートルほど先に行ったところで、恵美は呼び止めた。

 聞こえなかったものとして無視してもよかったのだが、光一は律儀にも自転車を止めて振り返る。

「あ、あの……」自分で呼び止めたくせに、恵美はそのことに躊躇っている様子だった。しばらく逡巡したあげく、「ううん……何でもない」

 光一は、何だよというように恵美を一瞥すると、再び前を向いてペダルを踏み込む。今度は誰にも邪魔されることなく、自転車は勢いよく坂を下っていった。

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