2章-3

 河合学の特徴を一言で説明せよと言われたら、大半の者はこう答えるであろう――「デブである」と。その単語の政治的正しさはさておくとして、百七十センチに満たない身長に対し、百キロ近い体重のある彼は、そう呼ばれるにふさわしい体型をしていた。

 河合は小学校の部活で野球を始めたときからキャッチャー一筋であるが、それも某野球マンガのイメージよるところが大きかった。だが、そのいかにも鈍重そうな見た目にもかかわらず、チーム一の俊足で、打順も一番を打っている。別に丸い体で転がるから早いわけではない。

 その河合は今、山の中にある自動車教習所にいた。そこで数日前から運転免許の取得を目指し奮闘しているのである。

 河合が運転する車が動き出したかと思いきや、がくんと前のめりになって停止した。助手席に座っている教官がブレーキを踏んだのだ。

 せっかくエンストせずに発進することができたのに……。

 河合は邪魔をした相手を睨みつける。

「今、後方確認をしなかっただろ」生徒の非難がましい視線など意にも返さずに中年の教官は言った。

「しましたよ、ちゃんと」ムスッとして河合は答える。

「そうは見えなかった」

「それは、あんたがちゃんと見ていなかっただけだろ」

「逆らうとハンコやらんぞ」

「……以後、気をつけます」

「よろしい」

 ……なんでこんなことになっちまったんだろう。河合はしみじみ思わずにはいられなかった。

 教習所のパンフレットによると、自然に囲まれた美しい施設で、親切な教官たちの指導によって気持ちよく教習が受けられるだけでなく、バーベキューや花火大会といった楽しいイベントも盛りだくさんで、一生の思い出になること間違いなしだと謳っていた。女性の受講者も多いということで、こいつは合宿期間中にロマンスのひとつも期待せずにはいられない。

 そんな宣伝文句に乗せられ、期待と希望を胸に合宿に参加した河合だったが、オンボロの男子寮にはエアコンすらなく、参加者がすし詰めになった部屋で寝苦しい夜をすごすはめになり、飯はメニューがワンパターンな上にまずく、下水設備の不備なのか風呂場はションベン臭く、自然に囲まれたと言えば聞こえはいいものの、寮内にも虫が大量に生息している有様で、こんなの詐欺もいいところだった。あげくの果てに、教習では強面の教官に終始どやしつけられていた。これならおとなしく学校の補習に参加しておいた方がまだましだったかもしれない。

 河合がげんなりしていると、彼の車の横を他の教習車が通過していった。その車の教官は美人の女性であり、運転していたのもかわいい女の子だった。

 教習所のパンフレットで唯一嘘ではなかったのは、女性の受講者が多いという点だ。昨年完成したばかりの真新しい女子寮は全個室で、当然エアコン完備。飯はメニューが豊富で、スイーツも付いてくる。浴場は広く、サウナまであるそうだ。当然ながら虫も生息していない。

 これならせめてロマンスの可能性くらいはあり得そうだが、あいにくこれに関しては合宿所のひどさは関係なく、河合自身の問題によって実現はしそうになかった。

「いいなぁ……。あんな美人の教官だったら、もっとやる気が出たのに」と河合。

「俺だって、お前のような暑苦しいデブなんかより、かわいこちゃん相手に教えたかったよ……」と教官。

 二人は同時にため息をつき、互いの立場に同情した。だからといって、そこから友情が芽生えるはずもなかったが。

「そんなことより、早いところ発車させろ。後がつかえているんだからさ」

「へいへい」河合は気を取り直してアクセルを踏んだ。

「はい、後方確認忘れた」

「うわちゃっ!?」

 車はまたがくんと停止した。

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