2章-2
そこは風が吹くと目を開けていられないほど砂埃が舞い、そのくせ水はけが悪く、雨が降ると何日も水たまりが残り、拾っても拾ってもどこからともなく石ころが湧いてくる、照明器具のような高級設備など当然のように付いていない、ごくありふれた学校のグラウンドだった。
「だけど、ここには俺の三年間の血と汗が染みこんでいる。俺の青春は、このグラウンドと共にあったんだ」
光一はそう感慨深げに呟いた後で、「それはちと大げさかな」と照れくさそうに頭を掻いた。
グラウンドには人っ子ひとりいなかった。いくつもの部活動がひしめくように練習をしている光景を知っている光一はいささか拍子抜けしてしまった。もっともそのおかげで、グラウンドの真ん中を悠然と歩いていても、サッカーボールが飛んできたり、ラグビー部員に突き飛ばされたりせずに済んでいるのだが。
光一はグラウンド隅のバックネットが張られているところまでやってきた。石灰で描かれたラインはほとんど消えかけ、ベースも外されているのでわかりにくいが、ここにはバッターボックスがあるのだ。
周囲に直射日光や熱風を遮るものがないため、夏の猛襲をもろに受けてしまう。だが、今の彼はそんな暑さなど苦にしなかった。
光一は右のバッターボックスを足で均すと、マウンドに目を向けた。
そこにはピッチャーがいた。決勝戦で戦った高校のエースだ。ピッチャーは少し前屈みになり、覗き込むようにこちらを見ている。
光一は視線を軽く後ろにやると、そこにはやはり相手校のキャッチャーが座っていた。構えたミットの下でサインを送っているようだが、当然それを見るわけにはいかない。キャッチャーの後ろには、審判がどんなボールが来ても見極めてやるぞとばかりに身構えている。
再び正面に目をやると、そこは学校のグラウンドではなくなっていた。夏のまばゆい日差しをも吸い込む黒土の内野と、ところどころ芝生が剥げている外野、その周りを緑色のフェンスが遮り、さらに外側をすり鉢状のスタンドが囲んでいる。コンクリートの段に背もたれのない色褪せたプラスチックの座席が付いているだけの内野席は超満員だ。芝生になっている外野席にも多くの観客が見える。――そこは地方予選を戦った市営球場だった。しかもシチュエーションは、決勝戦の九回裏の場面そのものだ。
光一自身もユニフォーム姿になっていた。前の打席でぼてぼてのサードゴロを打った際、一塁にヘッドスライディングをしたため、上下共に汚れてしまっていたが、そんなことは気にせず手に持っていたバットを構える。
サインが決まり、ピッチャーはセットポジションになる。それに呼応するように、光一もテイクバックをとる。
ピッチャー、振りかぶり――投げた。
光一は迫ってくるボールめがけてバットを振り抜き――
「ストライク! バッターアウト!」
その声に光一は我に返った。
気がつくと市営球場も、相手チームの選手も、そして試合の心地よい緊張感も泡のように消えてしまっていた。後に残されたのは、学校のグラウンドの誇りぽい土の臭いと、相変わらずの暑さ、そして変なところ人に見られてしまったというばつの悪さだけだ。
光一は野球でいえばライトの方角に視線を向けた。そこには赤いかまぼこ屋根の、よくあるタイプの体育館がグラウンドに面して建っている。
体育館の非常口前に誰かが座っているのが見えた。距離があるので顔まではわからないが、右手を高々と掲げているのが確認できる。こちらに自分の存在を知らせるためと、先ほどのアウトのジェスチャーであるようだ。
光一は架空のバットを放り投げると、一塁を通って体育館の方へと歩いていく。
近づくにつれ、複数の女子生徒の声が聞こえてきた。どうやら、体育館の中で活動している部活があるようだ。だが、先ほどの声は明らかに男のものだった。
やがて光一は飛び入り審判の前までやってきた。予想はしていたが、それは彼の知っている相手だった。
「よう、久しぶりだな澤崎」
そいつは軽く手を上げて言った。その手には学食の自動販売機で買ったと思しきジュースの紙コップが握られている。
「オッス、三島」
光一も軽く手を上げて応えると、そいつの隣に腰を下ろした。非常口前は三段のコンクリートの階段になっていて、座るにはちょうどいい案配だ。体育館が作り出す巨大な日陰は意外と涼しく、適度に風も吹き込んでくるため、なかなか居心地がいい。
強烈な日差しから解放されて一息ついた光一は、隣に座っているそいつに視線を向ける。
三島隆宏はこの学校の三年生。同じ野球部員であり、背番号1を背負っていたエースピッチャーだ。この夏の地方予選は、負けた決勝戦を含む全試合を一人で投げきった三島は、キャプテンとしてチームを引っ張った光一と並び、チームの快進撃を支えたひとりだった。
光一同様、三島の顔も真っ黒だ。だが光一とは違い、腕は全体的に白いままである。ピッチャーである三島は、腕から汗が垂れてきてボールが滑るのを防ぐため、暑い最中でも長袖のアンダーシャツを着ていたせいだ。そんなことに気を遣わなくてもよくなった今は、半袖の青いポロシャツにジーンスという恰好をしている。
「久しぶり」という三島の言葉通り、二人が顔を合わせるのはあの決勝戦以来となる。
別に二人は待ち合わせをしていたわけではなく、ここで出会ったのは単なる偶然だ。そもそも、三島がいるとわかっていたら、光一はグラウンドで幻想の相手と野球などしなかっただろう。
……さっきの行動をどうからかわれることやら。
今からげんなりする光一だったが、三島はその件については触れることなく、
「しかし、今日も暑いなぁ」と呑気な声で言った。
「……なんだよ、そのしょうもない会話の始め方はよ」光一は呆れたように眉を顰める。
「しょうもないとは失敬な。この時期になると必ずといっていいほど流行る挨拶をしたんじゃないか。なんてったって僕は、流行の最先端を行っている人間だからね」
「流行の最先端ねぇ……」
そんな伸びかけのイガイガ頭をしている人間が何を言っているんだか、と光一は突っ込みのひとつも入れたくなったが、自分も似たり寄ったりの頭であることに気付いてやめた。かわりに、「まあ、たしかに暑いよな」と当たり障りのない返答をした。
「まったく、いまいましいかぎりだよ」と三島は言った。「僕らにとって夏はとっくに終わったっていうのにさ」
「……そうだな」
「まあ、仕方がないか。僕らの気分に合わせて夏を早めに切り上げたりなんかしたら、世間的にはいろいろ具合が悪いだろうからね。日照不足で農作物が育たないとかさ」
「くだらねえ」吐き捨てるように光一は言った。冷夏で米が不作になろうが、こっちの知ったことか。
「まあまあ、暑いからってそうカッカしなさんな。ほら、これでも飲んで冷却しなよ」
そう言って、三島は半分ほど中身が残っている紙コップを差し出した。光一はひったくるように受け取ると、中の液体を一気に煽った。
それは大手清涼飲料水メーカーが毎年道楽で出しているとしか思えないふざけたフレーバーのコーラの最新作だった。想定していなかった独特の味わいにたまらず噴き出しそうになったが、根性でなんとか飲み干す。口の中に嫌な後味が残ったものの、喉の渇きは解消された。だが、心の方にはあまり潤いを与えてはくれなかった。
それはジュースのまずさのためでも、新発売ということで興味本位で買ったはいいものの、あまりのまずさにひとりでは飲み干すことができず、彼に後処理を押し付けた三島のせいでもない。苛立たずにはおかない光景が目の前に広がっているからだ。
「なんで誰も練習していないんだよ!」
光一は怒り任せに紙コップを握りつぶした。さいわいすでに空になっていたため、服にジュースをぶちまけるという惨事は免れることができた。
光一たち三年生の引退にともない、野球部は一、二年生による新体制へと移行していた。後輩たちは、まずは秋季大会に向けて猛練習に励んでいる――はずなのだが、ごらんの通り、グラウンドには人っ子ひとりいなかった。自分がいなくなったのをいいことにサボっているのだと思い、前キャプテンである光一は憤懣やる方なかった。
「野球部にかぎらず、外でやる部活の連中は涼しい午前中で練習を切り上げたんだろうさ」光一とは違い、三島は至って平然としていた。「炎天下でくたくたになるまで練習したところで、能率は上がらないだろうからね」
「そんな根性のないことを言っているから、うちの運動部は弱いんだよ!」
「そうカリカリしなさんなって。だいたい、僕たちが現役の時だって似たようなものだったろ。それでも、いいところまでいけたじゃないか」
「だからこそ言ってるんだろうが。もし、もっと熱心に練習をしていたなら、俺たちは今以上に強くなっていたかもしれない。あの試合にだって勝つことができたかもしれない。そして、今頃は甲子園の土を踏んでいたかもしれない。――そうは思わないか?」
真剣な表情で訊いてくる光一に、三島はいささか困惑したように肩をすくめる。
「たしかにそうかもしれないけどさ……。でも、もう終わったことじゃないか。今さらそれを言っても始まらないだろ」
たしかに、今になって過去の自分の怠惰さを悔やんでみたところで、何の意味もないのかもしれない。だいたいそれは、幸運にも決勝戦まで行けたがゆえに芽生えた贅沢な後悔なのだろうし。
そんなことは光一だって重々わかっているのだ。だが、自分たちの青春の日々をすでに終わったものとして片付けてしまっている三島に対し、彼は反発を覚えずにはいられなかった。
「じゃあ、どうしてお前はこんなところにいるんだよ。制服を着ていないところを見ると、別に補習を受けに学校に来たわけじゃないんだろ?」
……どうせ、お前も俺と同じなんだろ?
「まあたしかに、僕も練習を覗き……見学に来たクチなんだけどね」
そう言って三島が顎をしゃくって示した先は、グラウンドではなく体育館の中だった。
もしかして、グラウンドじゃなくて体育館の方で練習をしているのだろうか。光一は立ち上がると、半分ほど開いている非常口からそっと――なぜか三島に「こちらの存在を気付かれないようにね」と釘を刺されたのだ――体育館の中を覗き見た。
たしかに、そこでは部活動が行われていた。もっとも野球部ではなく、女子新体操部のではあったが。レオタード姿の彼女たちは巧みにリボンを操ったり、宙に放り投げたボールを背中で受け止めたり、床を転がるフープを追いかけたりしている。さっきから聞こえていた黄色い声は彼女たちのものだったようだ。
「レオタードはいいねえ」いつの間にか三島も並んで体育館の中を覗き込んでいた。「バストやヒップといった女性の優しい凹凸をぴっちりと包み込む官能性と、あられもなく股を広げることも可能な機能性の融合したそのフォルムは、まさに運動する女性のための衣裳だよ。部員の中には練習のときくらいは体操着でいいじゃないかという意見もあるようだけど、とんでもない。普段から着慣れておかないと、本番では恥じらいのせいで本来の力を発揮できないかもしれないじゃないか。彼女たちは、練習時もレオタードの着用を義務付けている新体操部の伝統に感謝するべきなんだ。少なくとも僕は今、猛烈に感謝している!」
よだれを垂らさんばかりに熱っぽくレオタードを賞賛する三島に、光一は呆れ返っていた。
野球にかぎった話ではないが、いいところまで勝ち進む部活動の部員には、学校の内外問わず少なからずファンが付くものだ。今年の光一たちの場合も例外ではなかった。中でもピッチャーというもっとも目立つポジションで、体育科系のむさ苦しさとは一線を画する涼しげなマスクを持った三島は女性の一番人気だった。スタンドの最前列には自校・他校問わず彼目当ての女子生徒が陣取り、声援を送っていた。その数は勝ち進むに従ってねずみ算式に増えていき、決勝戦でホームランを打ったときなどは、女性ファンの黄色い声で応援団の声がまったく聞こえなくなったほどだった。チームメイトは皆、三島のことをうらやむと同時に、この世の不公平さを呪ったものだ。
だが、彼らは知っている。ぱっと見は爽やかな好青年然とした三島ではあるものの、その正体はどうしようもない〝スケベ野郎〟であるということを。
野球部だけでなく、運動部の部室が建ち並ぶプレハブ棟内で流通しているエロ本の多くは三島が持ち込んだものであるという。校舎の構造を熟知し、どこから女子更衣室やシャワー室を覗くことができるか把握しているらしい。この界隈に住む男子小学生の間で代々受け伝えられている秘技・電光石火めくり(スライディングしながら女子のスカートをめくり、同時にパンツを覗き見るという荒技)は、三島が開発したと言われている。呼吸をするように発せられるエロ談義は単なる猥談の域を超え、男子たるものいかに生きるべきかという哲学の領域にまで高められていた。
いささか誇張されすぎている部分もあるだろうが、いずれにせよ三島が人間の三大欲求の一部分だけが肥大化した存在であることは、男子の間では広く知れ渡っていた。
女子連中は見てくれに騙されて、そんな三島の正体を知らないから無邪気に黄色い声援など送っていられるのだ。無知とはなんと幸せなことだろう。彼女たちの純潔を守るためにも、三島の卑猥な本性を教えてやるべきなのではなかろうか。……いや、決してやっかみなどではなく。
しかし、それを実行に移す男子はいなかった。犯罪行為に走らないかぎりはスケベであることに罪はないだろうし、それになにより、この学校の男子で〈三島コレクション〉にお世話になっていない者は皆無であったから。
そんなわけで、男性陣が「男には女に理解できない〝男の世界〟ってやつがあるのさ……」とうそぶいているかぎりは、三島の女性陣に対するイメージは安泰なようである。
「それで」三島は練習している新体操部から光一に視線を移して言った。「さっき、なんで僕が学校に来ていると思ったんだい?」
「……さあな」
光一はふてくされたように答えると、再び非常口の階段に腰を下ろした。……こいつが俺と同じだなんて、一瞬でも思った自分がバカだった。
そんな光一を心配そうに見つめていた三島だったが、やがて自分も光一の隣に座ると、話題を変えるように言った。
「ところで、他の野球部のみんなは今頃どうしているんだろうね?」
「どうせ補習だろ」面倒臭そうに光一は答えた。「なんてったって、俺たちは花の受験生なんだからな。今年は例年よりも長く部活動に関わっちまったものだから、遅れを取り戻すのに必死なんだろうよ」
「暑いのにご苦労なことだねえ」
光一同様、三島も当事者とは思えぬ感想を漏らした。
「あ、でも、河合のやつは免許を取りに行くとか言ってたな」思い出したように光一は言った。
「免許って、車のかい?」
「ああ。教習所の合宿に参加するんだとさ」
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