1章-2
地名+高等学校という、いたってシンプルな名前を持つその学校は、二十世紀初頭に旧制中学として創立され、数度にわたる周辺校との統合や共学化などを経て現在まで続いている、地元では名の通った公立の進学校だ。その短くない歴史において数多の優秀な人材を輩出しており、セックススキャンダルにより数ヵ月で退陣を余儀なくされた総理大臣や、残した作品よりも破天荒な生き様(あるいは死に様)でその名が知られる小説家などが卒業生に名を連ねている。
野球部が創部された時期ははっきりしないものの、かなり早い段階から存在していたものと思われる。過去に二度の甲子園出場を果たしているが、そのいずれもが戦前の話であり、近年では地方大会の初戦を突破することすらまれという、あまり誇れた実績を残してはいない。今の時代、公立で、部費が十数万止まりで、スポーツ推薦も団体生活を行うための合宿所もなく、複数の部活動が狭いグラウンドでひしめき合うように練習をしている、試験の一週間前になると活動が全面禁止になるような、県下有数の進学校の運動部が強い謂われなどありはしないのだ。
「今年も運がよければ、一、二回戦あたりまでは勝ち進むだろうけど、その後私立の強豪校とぶつかり、コールドで敗れるんだろうな」
学校関係者や野球部OB、本業は日本史の教師である監督、はては野球部員の〝彼ら〟までもがそう予想していた。そのためか、彼らの関心は目前に迫った大会よりも、高校生活最後の夏休みの有意義な過ごし方や、進路をどうするかといった〝この先のこと〟に多くのウェートが占められていた。むろん彼らとて高校球児、勝ち進んで甲子園に行けるのであればそれに越したことはないと思ってはいたが、そのような事態を本気で信じられるほど子どもでも夢想家でもなかった。
だが、勝利の女神は妙な悪戯心をおこしたようだ。そのことに彼らが薄々感づいたのは、予選の組み合わせ抽選の時だった。キャプテンである光一が引いたクジは、強豪校がまったく見当たらないブロックを指し示したのだ。彼らは「ひょっとしてこれは、けっこういいところまで行けるんじゃないか」と、ほのかな期待を抱いたものだ。もっともそれは、このブロックに入った球児のほとんどが思っただろうが。
かくして、夏の地方予選は始まった。
一回戦、二回戦は楽々とまではいかないまでも無難に勝ち進んだ。
――ここ数年、崩せぬ壁となっている三回戦。
これに勝利。最終回までリードされていたのだが、光一が起死回生のサヨナラヒットを放ったのだ。
――十年ぶりに経験することとなった四回戦。
またも勝利。初回に相手のエラーでもらった虎の子の一点を最後まで守りきった。エース三島、堂々の完封勝利。
――準々決勝。死のブロックから勝ち上がってきた猛者が相手だ。
これにも勝利。六回に代打で出た新山のヒットから始まった集中打で三点のビハインドを一気にひっくり返したのだ。これでベスト四入り。
この想定外の事態に、周囲の人間は色めき立った。学校はこれまで前例のなかった全校応援を実施し、その存在すら忘れられていた後援会が先走って甲子園に行くための資金を集め始め、地元の新聞は彼らの快進撃を書き立てた。
そんな周囲の熱狂とは裏腹に、当の彼らは喜びよりも戸惑いの方が先に立っていた。「もしかして自分たちは、誰かが見ている御都合主義的な夢の中にでも迷い込んでしまったのではないか」と不安になってしまった。
――準決勝。ここで負ければ、周囲の狂騒も彼らの不安もただの笑い話になるはずだった。
だが、勝ってしまった。延長十一回裏、ツーアウトながらランナー三塁という一打サヨナラのチャンスに、相手ピッチャーが痛恨のボークを喫したのだ。あまりに拍子抜けな結末に、両チームのスタンドとも喜んだり悔しがったりする以前に、しばし呆然としてしまったものだ。
こうして彼らは、大会前には誰も予想だにしていなかった決勝戦まで駒を進めたのだった。ここまでくると、彼らも夏休みの予定などそっちのけで、真剣に〝この先のこと〟について考え始めた。
「自分たちには勝利の女神が付いている。だから、きっと次も勝てるに違いない。そして、夢にまで見た――夢にしか見る機会のなかった甲子園に行けるんだ。これぞ、無欲の勝利!」
無欲の勝利は欲が出たとたん成立しなくなるはずだが、浮かれ気分の彼らはそのことに気づいてはいない。
――いよいよ決勝戦。相手は春の選抜大会にも出場した優勝候補筆頭だ。
彼らの根拠のない自信は、試合前の相手校の練習を見たとたん、萎えた。
相手チームの選手たちは皆、高校生離れしていた。ピッチャーは投球練習で剛速球をビュンビュン投げ込み、バッターのスイングの鋭さは、風圧だけでボールを飛ばすことができそうなほどだ。ノックでは鋭い打球も軽々とさばき、ゲッツーや外野との連携といった難しいプレーも易々とこなしている。ベンチ入りできずにスタンドで応援している部員ですら、彼らよりも断然強そうだ。
これまでは強豪といえど、しょせん同じ高校生という意識があったため、精神的にまだ余裕を持って臨めたのだが、今回ばかりは子どもが大人相手に無謀な戦いを挑む印象を拭い去ることができなかった。
試合前から怖じ気づいてしまったことが原因なのか、単純に実力の差なのか、彼らは序盤から相手チームの猛攻に晒された。初回に四番バッターにスリーランホームランを打たれて先制されると、その後も三回に一点、五回に二点を奪われた。
「奇跡もこれまでか……」
応援していたスタンドに諦めムードが漂い始めた五回裏、きまぐれな勝利の女神はまたしても彼らにえこひいきをし始めた。フォアボールで出たランナーを一塁に置いた場面で、取られた分は自分で取り返すとばかりに三島が起死回生のホームランを放ったのだ。これがこの大会を通じてチーム初のホームランとなった。
この一本が彼らを勢いづかせた。自分たちにもホームランが打てるとわかった以上、この調子で二本、三本と大きいものを打って逆転だ!
その後はホームランこそ出なかったものの、六回、七回、八回にそれぞれ一点ずつ小刻みに取り返していった。三島も六回以降は踏ん張り、一人のランナーも許さなかった。
――そして、一点差で九回裏の攻撃を迎えた。
八番高田――高めのボール球に手を出し三振。
九番山口――ツーナッシングから粘りに粘った末、フォアボールで出塁。
一番に戻って河合――初球を打ってボテボテのショートゴロ。だが、当たりが幸いして内野安打。
二番水原――いい当たりではあったものの、レフト正面のライナー。
三番三島――
「ボール! フォアボール!」主審が高らかに告げた。
ワンスリーからピッチャーが投じたボールはストライクゾーンを大きく外れた。五回に打たれたホームランが頭から離れず、意識しすぎたようだ。――これでツーアウト、満塁。
『四番、サード、澤崎くん、背番号5』
ウグイス嬢の甲高い声が光一の名を告げると、一塁側スタンドから大歓声が沸き起こった。同校の数少ない全国レベルの部活動である吹奏楽部が勇ましいファンファーレを吹き鳴らす。数年前にプロ野球の公式戦が開催できる規模まで拡張したスタンドは、応援する生徒たちで超満員だ。せっかくの夏休みを返上しての全校応援ということもあり、必ずしも望んでこの場にいる者たちばかりではなかったが、ここまできたからには是が非でも勝ってほしいと誰もが願っていた。一方、相手側のスタンドからは、しきりに「あと一人!」コールが繰り返される。球場の盛り上がりは最高潮に達していた。
光一はウェイティングサークルを出ると、意気揚々とバッターボックスへと向かう。ヘルメットを取って一礼してからバッターボックスに入り、足下を均す。そして、ゆったりとバットを構えた。
彼らは誰もが光一が打つものと信じて疑わなかった。これまで幾度となく繰り返されてきた逆転劇には、必ずといっていいほど光一が関わっていたのだから。いわば光一はこの奇跡の牽引者といえるだろう。今回もこの上ない場面で彼に打順が回ってきた。これで打たないと思う方が嘘というものだろう。今日はまだノーヒットだが、やつならきっとやってくれるに違いない!
三塁ランナーの山口もその神話を信じて疑わない一人だった。彼は誰よりも熱心に光一に声援を送った。今、自分が塁に出ているという現実を忘れるほどに。
スタンドの大声援と自分自身の声以外聞こえなくなっていた山口の耳に、不意にその音が飛び込んできた。
それを何と表現すればいいだろう。
――革製品に革製品がぶつかる音?
――熱狂に冷水をかけた音?
――死神の鎌が振り下ろされた音?
ピッチャーがサードに牽制球を投じたのだ。
ピッチャーにしてみれば緊迫した場面に耐えられず、一息入れようとしたつもりだったのだが、それが思いのほか意表を突いてしまったようだ。
山口はあわてて塁に戻ったものの、視界を遮るほどの砂煙を巻き上げたヘッドスライディングも虚しく、彼の手はボールが収まったサードのグラブに阻まれ、ベースにすら届かなかった。
「アウトッ!」塁審は右拳を突き上げ、力強く宣言した。
球場全体がしーんと静まり返る。その場にいた千を超す人々は皆、何が起こったのか瞬時には理解できなかった。
だが、それも一瞬のことだった。自分たちが勝利したのだということに気付き、三塁側スタンドからどっと歓声が沸き起こった。選手たちもマウンド上に駆け寄り、互いに抱き合って勝った喜びを全身で表現している。
一方、一塁側のスタンドは自分たちが負けたという事実を受け入れられないのか、しばし沈黙を続けていた。その静寂を破ったのは、誰かが始めた拍手だった。最初、拍手は小さくまばらだったが、しだいに大きく絶え間ないものへと変わっていき、最後にはスタンド全体を埋め尽くさんばかりとなった。相手スタンドからも同様の拍手が沸き起こる。惜しくも敗れた彼らの健闘を、敵味方を越えて称えていた。
実際、彼らはよくやった。負けたところで、彼らを非難したり罵倒したりする者など誰一人としていなかった。翌日の新聞でも『優勝候補相手に大健闘!』と好意的に書かれたものだ。
だが、周囲の人間からどれほど賞賛されようとも、この日、この時、この瞬間に彼らの夏は終わってしまったのだ。
それだけが、彼らにとっての現実だった。
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