夏の終わり
大里トモキ
1章
1章-1
その日は朝から気温が三十度を超え、正午を過ぎた頃には暑さは最高潮に達した。
ギラギラ燃えたぎる太陽が、大上段から紫外線がたっぷりと含まれた光線を容赦なく地上へと降り注ぐ。強烈な熱光線をもろに浴びたアスファルトの地面は、舗装されたばかりのようにもうもうと煙を上げている。道沿いに建ち並ぶ雨風なぞ寄せ付けぬとうそぶく堅牢な家屋や、何人たりともこの先には進ませんとばかりに立ち塞がっている頑丈なブロック塀も、焼け付くような陽炎になでつけられたとたん、ぐにゃぐにゃにふやけてしまう。熱せられた電柱に磔刑にされたセミは、無慈悲な神に抗議するかのように悲痛な悲鳴を上げている。
灼熱の地獄と化した住宅地は、とても人が生息できる世界ではなかった。油断してちらりとでも窓から顔を覗かせようものなら、たちまち夏の魔物に焼け付くような息を吹きかけられ、黒焦げとまではいかないまでも、真っ赤に茹だってしまうこと受け合いだろう。そのため、誰もが日光を恐れる吸血鬼のように家の中に身を潜めていた。今頃人類は、冷房をガンガンに効かせた快適な部屋の中で、自らの科学文明が引き起こした地球温暖化という惨禍に恐怖し、打ち震えているに違いない。
そんなゴーストタウンの様相を呈している住宅地に、セミの鳴き声以外の音が聞こえてきた。キイキイという、セミの声以上に聴く者を苛つかせずにはおかない金属が軋む音だ。
やがて一台の自転車が熱せられたアスファルトの道をスピードを上げて走り抜けていった。元は銀色だったフレームにはところどころサビが浮き、度重なる転倒によってカゴはボコボコにひしゃげている。ペダルを踏み込む度にチェーンがカバーを擦り、耳障りな金切り声を上げた。
眩い日差しによって白飛びした世界にあって、そのオンボロのママチャリに乗っている十七、八ほどの少年は墨を垂らしたかのように黒かった。それは襟元がよれ気味のTシャツや、衣料量販店で購入したドライメッシュ素材のハーフパンツ、世界的スポーツメーカーのロゴの入ったかぎりなくクツに近いサンダルが揃って黒色なせいだけではない。きりりとした眉が印象的な精悍な顔や引き締まった腕が、こんがりを通り越して焦げている呼べるほどに陽に焼けているためだ。それでありながら、肩や脛など体の一部は白いままであるため、まるで出来損ないのパンダのようである。
彼は額から噴き出した汗を手の甲で払いのけるようにして拭う。しかし汗は次から次へと絶え間なく溢れ出てくる。それならばと、これまで以上に力強くペダルを踏み込み、全身により強く風を受けようと試みる。だが、いくらスピードを上げようとも、分厚い熱の膜に体が押し付けられるばかりで、ちっとも涼しくなってはくれない。自転車が発するうめき声はいっそう激しくなるばかりだ。それでも彼は速度を弛めることなく、一心不乱にペダルをこぎ続けた。
そのとき、彼の耳に人の声が飛び込んできた。はっとして、反射的にブレーキをかける。自転車はけたたまましい悲鳴を上げ、アスファルトに黒々とした刻印を残して停止した。
彼の聴いた声は大人数による熱狂的な歓声だった。バックには吹奏楽器による演奏まで流れている。古いアニメの主題歌のサビの部分が繰り返され、合間合間に大人数が一斉に声を張り上げているのだ。
閑静な住宅地には不釣り合いな騒音を不審に思った彼は、その正体を探るべく辺りを見回した。
発信源はすぐに特定された。数軒先にある低い緑の垣根に囲まれた古めかしい日本家屋だ。開け放たれた縁側にはランニングシャツにステテコ姿の老人が寝そべっている。傍らに置かれた今にも火を噴きそうな古めかしい扇風機と、手に持っている地元の祭りの様子が描かれたうちわの二つから涼を取っているものの、傍から見ていてちっとも涼しそうではない。
歓声と演奏は、老人が見ているテレビから聞こえてきた。甲子園で行われている高校野球の中継放送だ。ピッチャーとバッターか対戦する様子が映し出されている。攻撃側のユニフォームには見覚えがないが、朱色のアンダーシャツが印象的な守備側のユニフォームは甲子園常連校のものだとわかる。
老人は耳が悪いのか、テレビの音量は偶然そばを通りかかった彼が驚いて自転車を停めてしまうほどに大きかったが、隣近所は冷房で窓を閉め切っているためか、騒音で苦情を言われる心配はないようだ。
炎天下に棒立ちになっていたせいで、どっと汗が噴き出してきた。ゴーストタウンに突如響き渡った謎の歓声の正体がこのようなどうでもいいものであるとわかった以上、いつまでもここに留まっている謂われはない。さっさと自転車をこいで立ち去るべきだろう。
そう頭ではわかっているのだが、彼はどうしてもこの場から動くことができずにいた。垣根越しに老人宅のテレビをただ呆然と見つめている。
……そうか、もう甲子園が始まっているのか。最近、新聞もテレビもまともにチェックしていなかったら全然気がつかなかった。
彼はぼりぼりと頭を掻く。短い髪の毛のちくちくした感触が指に心地いい。これでも、ここ二、三年でもっとも長い状態ではあるのだ。
そうだよな。あれからもう何日も経っているんだもんな……。
彼――澤崎光一は、現在テレビの中で繰り広げられているものとは規模や華やかさの点において遙かに及びはしないものの、ほんの数日前まで似たような世界に身を置いていたのだ。
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