第22話

 俺はタクシーに乗っていた。全裸で狂ったように走る男を迎え入れてくれた奇怪な運転手がいたのだ。「緊急事態ですよね?」とこちらを見つめる目つきと壊れかけた眼鏡に見覚えがあった。早朝の公園に隣接する道路の路肩に車を停めて一服していたのは、昨晩、俺が乗車したタクシーの運転手だった。彼は大きく手を振って全力疾走する俺のことをわざわざ呼び止めてくれたのだ。



「運賃はもう十分いただいてますんで」と少し恥じらうようにして運転手は言いながら薄くなった後頭部を掻くと、こちらの指示した道順に沿って俺の住まいへと向けてタクシーを走らせ始めた。ずいぶん人情深い運転手だった。



 発進する前に彼がトランクから引っ張り出してくれた毛布にくるまりながら、俺は後部座席の車窓から、黄金色のまばゆい朝日に照らされてその輪郭が消失しかかっている高層ビル群が流れていくのを眺めていた。



「あの子、『救急』じゃなくて『緊急』って言ったんだな」と女学生のことを思い返しながらふと気づいたことをつぶやいてみて、俺は聞き間違いの代償の大きさにおかしくなって一人笑ったが、装着したままのKさんのマスクで口元は運転手には見えないようだった。



「なんか言いました?」



「いや、なんで素っ裸なのに乗せてくれたのかなって」



「……困ったときは、助け合いですかね」



「俺はもしかしたら、これから捕まるかもしれないよ」



「そのときは……、またそのときじゃないですか」運転手は気まずそうに言って早々と話を切り上げた。さすがに困らせる内容だったらしい、それ以後は最後まで押し黙ったままだった。疲れている俺にとっても、そうあってくれた方が都合良かった。



 一日経過せずして俺の犯した行為が一斉に報道され始めた。ただ大手のニュースサイトや新聞社のウェブ版に掲載された内容は不審者が出没したといった程度の記述のみで、俺が勤務先のビルで火災報知器を鳴らしてスプリンクラーを作動させた犯人であるなどといったことは全く書かれていなかった。



 SNSや動画投稿サイトでは全裸にマスクだけしているという男のイメージが強烈だったのか、変質者に対する品評会的なコメントがちょこちょこと散見されて、そういった物好きな界隈で小規模ながらバズっているふうにも見えたが、犯人や被害者を特定しようとする自然発生的な動きが生じるほどに正義感を煽るニュースバリューはない様子だった。



 気付けばタクシー運転手の好意で手渡された毛布をそのままくすねてしまっていた。それにくるまったまま、俺は照明もつけずにカーテンを閉め切った真っ暗な部屋にこもって自分に関する新たな報道が流れてこないかとスマホの画面を更新し続ける。誰にも見られたくない気分だったし、食欲や眠気といった欲求も欠落したようにまったく感じない。時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば夕暮れ時になっていた。そして俺に関する続報が流れることはなかった。



 そうなると今度は馬男のことは気になってくる。相手もまるっきり馬鹿ということもあるまい。Kさんを介して性的な罪を犯していることを認知しあった者どうし、喧嘩両成敗といった形で向こうも矛を収める気がした。



 Kさんのデスクの上に設置された火災報知器に奴が仕込んだという隠しカメラだが、せっかくセンサーごと天井から引き抜いて回収したのに俺の手元にはなかった。公園で一夜を過ごすうちに、どこかに落としてしまったのだろう。ただ、そこから俺の身元が割れることはないと確信めいたものを抱いていた。



 仕掛けの事実を知っている者でもない限り、たまたま公園に落ちていた火災報知器のセンサーを拾ったところで、それに小型のカメラが仕込まれていることになんて気づかないだろう。



 それに本当にカメラが仕込まれていて、しかも誰かによって映像が取り出されてしまうという不運が重なったとしても、撮影されている場所から職場を特定することだけでも困難を極めるはずだろうから、「俺」という人物が映っていたとしても、それも特定する手がかりがなく誰だかわからないはずなのだ。追及の手が俺の身にまで及ぶとはとても考えられなかった。



 もう一度、ニュースサイト等を巡回してみる。やはり俺に関する続報はなく「逃げ切れるのではないか?」という思いが徐々に強まってきていた。背丈のあるヒマワリが枯れ始めたときの大仰な死を思わせる絶望感に見舞われていた俺に段々と活力が戻ってくる、と同時に真っ赤な電熱線が埋め込まれたかのように脳が熱くなる。生きながらえる方法に思考を全力で巡らせることで眉間には自然と深いしわが寄っていた。



 職場は火災報知器が検知した俺のライターの火によってスプリンクラーが作動して水浸しになっているはず。俺や馬男が映り込んでいるビル内の監視カメラ映像が、現場検証の一環として消防や警察によって確認されることは必定ひつじょうだろう。馬男の隙を突いて逃げるために俺が自ら作動させたものとは言え、火災報知器さえ鳴らなければ、わざわざプレイバックされることもなかったであろうビル内に設置された高解像度を誇る監視カメラの映像……。



 近く俺は必ず警察や消防の要請を受けて事情聴取を受けることになるはずだ。その事態を想定して、凝った言い訳などいろいろと考えたりもしたが、ここはやはり簡潔に「どうしても必要な仕事の資料があって職場に取りに行った」と言うことに決めていた。



 ただ馬男も映像に映り込んでいるだろうから、やはり奴とも話をすり合わせておかなくてはまずいことになる。そうだコンペに備えたチームメート同士の夜の密会も行う予定だったということにして……。俺たちは職場で突然の火災に見舞われたから全力で走って逃げただけと言い張ろう。現場検証などによって火元がトイレと特定されても、肝心の火の手が上がっていないのだから誤動作だったと結論付けるしかないだろう。そのためには、俺たちがトイレで何かしていたのではないか訊かれても、絶対に口をわらないことが条件となるが。その部分に関しても馬男とはしっかりと話を詰めておかなくてはならない。

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