第21話

 空になったカップ酒が数本、それに缶ビールや酎ハイの空き缶も転がっているように見えた。ひどくピンぼけした映像の焦点が少しずつ合ってくるのに伴って、まどろみの中にあった俺の意識も徐々に覚醒してくる。スズメか何かの鳥のさえずりが静寂を切り裂くように響き渡っていて、うるさく感じられた。周囲は薄明るい、おそらく朝方……、午前五時か六時ぐらいのまだ早い時間帯だろうか。



「一体、ここはどこだ?」という疑問が浮かんでくるのとほぼ同時に、俺はいつのまにか低木の生い茂る公園の生垣の中に潜り込んで眠っていたらしいことを理解した。一帯に散乱している酒類の空きビンや缶は俺が飲み干したものに違いなかった。昨晩は、この茂みを根城ねじろとして幾度も自販機へ行ったり来たりの往復を繰り返していたとみられる。本能的に隠れ家のような安住の地を探し当て、それに満足したのか、ひとりうたげもよおしていたようだった。



 雨はすっかり止んでいた。昨晩の身体ごともっていかれそうな暴風雨が嘘だったかのような穏やかさだ。一面ぬかるんでいるものの、思いのほか俺の身体は汚れてはいなかった。ただ、体中のいたるところにひりつく痛みがあって、確認してみると生々しい赤味を帯びた擦り傷だらけだった。生垣の枝々にでも引っかけたのだろう、よくガラスの破片や釘などで怪我しなかったものだと、意識がはっきりしてくると肝を冷やした。



 「マスクは!?」と、はたと思い出す。見回してみると、なんと俺はそれを股間に装着していた。耳紐の長さだけでは腰回りがどうしても足りなかったらしい、背中側はその辺に落ちている枝を左右の紐の輪っかを通すようにして上手い具合に固定してあった。泥酔していたからこその柔軟な発想といういうべきか、俺はその仕組みに感心してしまう。そうまでして自分のペニスを、手を使わずにマスクで覆いたかったようだ。解放された両手にはどのような使い道があったのだろうか、単に手を使ってマスクを保定し続けることを嫌っただけか、それとも酔いながら本来の目的である自涜に興じたのか。



 生垣の中で仰臥ぎょうがしたままKさんのマスクを股間から外して内側の状態を確認しようとしたときだった、人の気配がして息をのむ。早朝の部活動でもあるのか公園に面した歩道を行く制服姿の女学生が枝々の隙間から見えていた。見張るつもりでその姿を目で追っていたが、徐々にこちらに近寄ってきたかと思うと一瞬だけ彼女と視線が合ってしまったのだ。



 俺は自分の顔を隠すために股間に巻き付けていたマスクを引っ張って取り、ゆっくりと口元に装着した。精子がこびりついて悪臭がするかもしれないなと覚悟していたが、ほぼ無臭だった。単に下半身に装着していただけらしい。酔っての自涜じとくは行われなかったようだ。



 女子学生はそのまま通り過ぎたように思えたのだが、すぐに近くから密談をしているようなか細い声が聞こえてきてギョッとした。俺は恐ろしさで仰向けのまま身動きできず、目だけ動かして自分のへそより下を覗き見るような具合に確認してみると、先ほどの女学生がスマホで誰かに電話をしているようなのだ。



「はい、そうです。救急です」



 女学生は消防に電話して救急車の出動要請をしていた。つまり俺のことを行き倒れかなにかと勘違いしたのだろう。それは若さゆえの未熟な判断としか言えない気がした。生垣の中に全裸の男が横たわっているのを目撃したのにもかかわらず病人と解釈してくれたのだ。「変な人が寝ている」と警察に通報される可能性も大いにあり得たわけで、彼女の純真さに俺は感謝するべきかもしれなかった。



 ふと、このまま救急車で病院に運ばれてしまうのも悪くない手なのではと気付く。むしろこの苦境を脱する上で、それが最適解とすら思えてきた。



 泥酔した男の救急搬送……、毎日でもありそうなほど、ありふれた話で事件性を感じさせないところが実に良かった。酔っぱらった勢いで裸になり、そのまま眠ってしまったことにすれば詳細なんていくらでもはぐらかせる。



 たとえ搬送先の病院に警察がやってきて、「昨日の夜はずいぶん雨が降っていたけど、なんで裸になって外で飲んだりしてたの?」と高圧的に詰問きつもんしてきたとしても、酔っていたから記憶がないの一点張りでなんとかなる気がしたし、事実、俺はこの公園で酔い潰れて失神したような仕方で眠ってしまったのだから嘘ではない。むしろ変に凝った嘘に、さらなる嘘を重ねて矛盾に陥ってしまったりするよりも、細部を語らずにいた方がよほど上手いこといきそうに思えた。



 それに、あのどしゃ降りだ、市中に蜘蛛の巣のように張り巡らされている監視カメラ網のどれかが俺の姿が捉えられていたとしても、人相を判別することは到底、不可能だろう。つまり俺を犯罪者に仕立てるための直接証拠がないのだ。もしかして、俺は助かるのでは?という希望が湧いてきた。



 救急車が到着する前にKさんのマスクは処理しておいた方が良いだろう。一見して女性用と分かるマスクを全裸の男が所持しているとなると、さすがに救急隊員たちからも不審がられる恐れがある。ただ救急隊員のみならず、女学生にも素顔を見られることになってしまうが、それはやむを得ない。



 少し肌寒く湿り気のある早朝の静寂の中から、サイレンの音が小さくこだましてくるのが聞こえてきた。不思議なほどの安堵感があり身体の緊張がほぐれるような感覚に包まれたのも束の間その音に違和感を抱く。それが救急車でなく警察車両のものであることを知り血の気が失せた。女学生に裏切られた?困惑と疑念が生じると同時に激しい怒りが込み上げてくる。「救急です」と、消え入りそうな声でスマホ越しに伝えていたあの言葉は一体なんだったのか?



 その様子を思い浮かべ直そうとした次の瞬間、俺の身体は勝手に動き出していた。野性的な防衛本能でも覚醒したのか、天敵のチーターに襲われたガゼルのような猛烈な瞬発力を発揮して、俺は周囲の枝をへし折る勢いで生垣から飛び出すと、向かうべき方角も分からないまま無我夢中で早朝の閑静な住宅街の中を駆け出していた。Kさんのマスクは着けたままだった。その突然の事態に驚いて腰が抜けてしまったのか、さきほどの女学生が地べたにへたり込んでいる姿が視界の片隅にあった。

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