第20話
一階に到着するやいなや、俺はエントランスホールを真っ裸で走り抜けた。敷き詰められた大理石調のタイルは氷のように冷たく、裸足の足裏を痛いほど刺激した。案内係役のアンドロイドたちに気付かれたかもしれないが、そんなことにいちいちかまってはいられなかった。
それでも、彼女たちが「夜間の勤務中に見たくもない男の裸を見せられました。これは立派なセクハラです!」と訴え出て労基問題や性犯罪の案件にでも発展しでもしたらどうすれば……、という不安が頭をよぎる。そのときKさんは馬男の一件のときのように俺を救うための助け舟を出してくれるだろうか?
ただ、それ以上に問題なのは、高層ビルの入口に設置されている監視カメラで、この高層ビルへ出入りした全ての人間は、全身及びその顔の細部に至るまでかなりの解像度で録画されているという話を聞いたことがあった。
職場に侵入した際には服を着ていたから、もしも俺の映っている監視カメラの映像について問い質されるような事態に陥ったとしても「忘れ物を取りに来ただけ」と適当な理由をでっちあげておけば、不法侵入といった罪状で捕まることはないだろう。しかし全裸で駆け抜ける姿が撮られているとなると、どうにも言い訳ができそうにない。不審すぎる俺の存在と、この火災探知機が作動したこととの関連性を探られることになるのは避けられる気がしなかった。
唯一助かる方法、それは俺が窃盗を働く姿が映っているかもしれない映像の抹消だった。それさえ達成できれば、助かる可能性がないこともない。誰もいないから、つい気が緩んでタバコを吸ってしまい火災報知器を作動させてしまった。なぜ裸だったのかという点に関しては、ここのところ精神的に病んでいて突発的に衣服を脱ぎたい衝動に駆られてしまうことがあるということにでもしておけば……。
高層ビルを飛び出ると、意外なことに外も台風が直撃しているかのような豪雨に見舞われていた。暴風雨が吹き荒れる中にあっても周囲一体は大掛かりな工事の真っ只中といった具合で、いたるところに小ぶりな月が出現したのかと見紛うばかりに強烈な光で周囲を照らすバルーンライトが設置されていた。それぞれのバルーンを支えている三脚の足元には、強風に煽られて転倒したり吹き飛ばされないように重石用の土嚢が積まれていた。
俺は身を隠すすべもなく、そのまばゆい光の中を必死に走り抜けた。レインコートを着た大勢の作業員たちのうちの一人と目が合った気がするが、相手はこちらの風貌を特段気にする様子もなくすぐに視線を持ち場の方へと戻した。夜間に出没する変質者には馴れきっているというふうだったし、それ以上に今夜の大雨の中での作業に嫌気がさしているようだった。
負の走光性を持つ虫よろしく、とにかく光を遠ざけたかった俺は走り続けて、いずれ見知らぬ木々の鬱蒼と生い茂る公園にたどり着いていた。若者たちがたむろしていないかという不安が一瞬よぎったが、このどしゃ降りの雨の中にあって人の気配なぞまったくなかった。暗がりに目が馴れてくると、こども用の水飲み水栓があるのがわかった。俺は蛇口をひねって流れ出てくる水を雨水もろともガブガブと飲んで喉の渇きをうるおした。そして、そのころにはもうすべてを諦め始めていた。街中、監視カメラが設置されているのだ、裸で走り回っている俺に救いなんてもうないだろうと。
家に帰ろうとするも方向が分からない。スマホはしっかりと握り締めていたが調べる気力も湧かないほど疲れてしまっていた。それに下手にウロウロと俳諧していれば、見咎められて通報されるか警ら中の警官に職務質問されかねない。警察署にでも連行されたら、さすがにもうおしまいだろう。俺は身震いした。
雨ざらしのせいで身体がだいぶ冷えてきているようだった。家路につくのはいったん諦めて、とりあえずなにか温かいものでも飲みたいと思い周囲を見回してみると、さっきこの公園に入ってきた場所とは違う裏口と思しきあたりに数台の自販機が林立して光をぼんやりと放っているのが確認できた。その中の一台が珍しいことにアルコールを取り扱っていていることを知った俺は口元が緩んだ。
スマホの専用アプリで予め身分証の提出による年齢確認と引き落とし用の口座の紐づけ作業を完了していれば、いつでも購入が可能になるということで、その認証方法が普及してくると一時は撤去されて姿を消していた酒やタバコの自販機がまた増えてきているという話だった。
俺もいつかは利用する機会があるかもしれないと思って、アプリのインストールと諸々の手続きは終えていたが、まさかこんな状況下で役立つことになるとは予想だにしていなかった。
アプリを立ち上げてスマホの画面を読み取るタッチパネルにかざしてみる。するといとも簡単にカップ酒の日本酒が購入できてしまった。俺はいそいそと着用していたKさんのマスクを顎へとずり下げる。
プルトップ蓋を開けて、激しく降り続ける雨水が酒に入ってしまわないように片手をかざしながら、おちょぼ口となってカップの端に顔を近づけて吸いつくように酒を迎えにいく。最初の一口は喉元を潤し、二口目からは日本酒のまろやかな甘みが染み渡り熱気がゆっくりと全身をめぐっていった。そして三口目で一気に飲み干していた。スマホを自販機にかざして続けざまに二本目を買った。俺が覚えているのは、そのあたりまでだった……。
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