第19話
脱いだ衣服を着ている余裕はなかった。俺は素早く便器の上で立ち上がる。つま先立ちになってふらついたが、片手で天井をしっかりと押さえつけつつもう一方の手を伸ばして火災報知器のセンサーに向けてライターを灯す。「なにをやっているんだ!?」という馬男の悲鳴に近い叫び声がした。
『〇〇階で火災が発生しました、落ち着いて避難してください。〇〇階で火災が発生しました、落ち着いて~』という機械的な音声によるアナウンスが流れ、焦燥感をやたらと煽るような不快かつ大音量の警報音が建物内で鳴り響き出した。それと同時に火災用スプリンクラーが作動して、周囲は一気に霧に包まれたかのような不明瞭な視界となった。
馬男が何かを叫んでいるが聞き取れなかった。俺は脱いでいた衣服とスマホを掴み、Kさんのマスクを着用すると靴も履かずに全裸のままトイレの個室の扉を勢いよく開けて、外へと飛び出した。びしょ濡れになるのもかまわず無我夢中で走りながら、ふと思い立ってオフィスのKさんのデスクへと足を向ける。その際に進路を変えようと身体を急旋回したせいで俺はスリップしてすっ転んだが不思議なほど痛みを感じなかった。
この階にある全てのスプリンクラーが稼働しているらしく、嵐の只中にいるようなひどい視界だったが、Kさんのデスク上部の天井あたりに設置された火災報知器の赤いランプがまばゆく点滅をくり返しているのが見えた。
俺は彼女のデスクによじ登り、その勢いのまま飛び上がって天井に埋め込まれているセンサーを掴むと、全体重をかけて思いっ切り下方へと引っこ抜いた。思いのほか簡単にセンサーだけが天井からくり抜いたように綺麗に取れた。
それは以前に馬男が細工を施すために取り外した過去があるためなのか、天井にしっかりと付け直したつもりでも、接着が柔く遊びができてしまっていたのかもしれない。
このセンサーの中に隠しカメラがあるのか……、万一俺の姿が撮られていたとしてもこれごとハンマーかなにかで物理的に破壊してしまえば!あとは撮影された動画が自動転送されて他の端末かなにかに既に保存されてしまっていないことを願うばかりだ。そんな一縷の望みを賭けて回収したセンサーを強く握りしめると、俺はエレベーターホールへと一目散に駆け抜けた。
気付くと手にしていたはずの衣類がなくなっていたが、探している余裕なんて無かった。スプリンクラーから放出されるゲリラ豪雨のような凄まじい水の音と火災を告げる警告音が鳴り響く音の洪水の中にあって、馬男の甲高い奇声がしっかりと聞こえているのだ。それはどんどん近づいてきていた。
薄暗いエレベーターホールはもう何十年も放置されたまま廃墟化してしまった雨ざらしのリゾートホテルのような禍々しい様相を呈していた。ただ火災が確認された階へ自動で向かうプログラムが施されているのだろうか、四機あるエレベーターはすべて扉を開いて待機してくれていた。
そのひとつに飛び乗って俺は一階のエントランスホールへ向かう。馬男がこちらに向かってものすごい形相で走ってきているのが見えた。俺は「閉」のボタンを猛烈に連打していた。もうダメかと思われた間一髪のところでエレベーターの扉が閉まり上昇時と比べると幾分ゆるやかに感じられるスピードで下降を開始した。
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