第17話

「ところでずっと気になっていたんですけれど、なんかタバコ臭いですよね、このトイレ。もしかして中で吸ってます?」たしなまない人間からしたら、数時間前に吸ったはずのかすかな残り香でもわかってしまうものらしい。袈裟けさをまとった坊主がどうしても線香臭く感じてしまう印象論的な話かと思ったが、どうもそうでもなく本当に臭うらしいのだ。しかも紙タバコでなく煙のほとんど出ない電子タバコでも嗅ぎ取ってしまうことに驚いた。単に馬男の嗅覚きゅうかくが鋭くて、それこそ動物的な鼻のきかたでもする可能性もあるのか?



「吸う人の数、いっときだいぶ減りましたけど、また持ち直してきてるって話らしいですね。喫煙所はこのビルの1階にあるだけですから、たとえあなたじゃなくても、ここで吸っている不届きものがいる可能性は大いにあるかもしれません。でも、はっきり言ってこの無菌室みたいなトイレの雰囲気に紫煙しえんはそぐわないと思うなあ……、いくら吸いたいからってこんな無機質な空間の中でも我慢できないもんなんですかねえ、その辺の感覚は分からないです。まあ、そもそもトイレって有機物である人間が排泄物を出す場所なんだから、むしろ細菌を培養するシャーレ的なイメージの方がしっくりくるのかな、無機質な環境で有機物を培養するっていう……あっ、でも肥溜こえだめじゃないから培養的な要素は含まれていないのか」馬男は口早にひとりごちていた。



 いろいろな要素を考えつつ懸命に処理しているのだろうか、こちらと距離を詰めるかのように語られる雑談めいた内容は妙に熱を帯びていて、このタイミングでこだわる事柄だろうかという不自然さが際立っていた。冷静な口調でおだやかに話そうとしつつも、オーバーヒートしていたる箇所から煙が噴き出している古典的なロボット像のイメージがふとわく。



「今まで録画したものでは確認された試しがありませんけど、もしタバコの煙が舞ってるとなると画像の映りがかなり不鮮明になっちゃうと思うんですよね、しかもレンズが煤けたりしないかとか不安になりますし。そういうことを考えると無性にイライラしてきちゃうんですよ、だってこっちだってそれなりに工夫して設置しているわけだから」



 少し演技掛かった感じのする怒りを表明した後に、馬男はこちらの反応を伺うように急に静かになった。この男性用トイレにも隠しカメラを設置していることを匂わせる言い方。その事実に俺が気づくのをわざわざ時間を割いて待っている、そんな感じがした。それに、あわよくば俺がその釣り餌に勢いよく食いついてきやしないかといった魂胆もあるように思えた。



 つまり真相が気になってついつい馬男に返答してしまい、俺がここにいることを自ら認めてしまうという、単純だが人の心理をついたような罠もちゃっかり仕込まれている……、そんな狡猾さがひそんでいる不穏な沈黙だった。



 ただ、本当にこんな場所にカメラを仕掛けたりするものだろうか?と昼光色のLEDライトに照らされた青白い天井を見上げながら思うのだった。Kさんを天井からも盗撮していると馬男が勝手に告白していた方法と同様に、たしかに薄い円柱状の火災報知器用センサーが天井に埋め込まれてはいるが――俺はそれを気にして紙巻きタバコでなく電子タバコを吸っていた――、納得いかない部分もあった。



 女性を盗撮して喜んでいる人間が、はたして男性用トレイも撮りたいという欲望に駆られたりするものなのか?犯罪者に倫理観を求めても始まらないが、男でも女でもいいからとにかく人の恥部や痴態を手当たり次第見たいというのは、あまり上品な嗜好とは言えない気がする。



 いや、もしかして他の同僚を監視するという意味でカメラを仕掛けているのだったら?男たちの排泄している姿を撮るのが目的なんかではなく、トイレ全体での何気ない同僚たちの会話を録音するために盗聴器的な使い方として隠しカメラを設置しているといった可能性は……。それならむしろ納得がいく、いやむしろ合理的ですらあるかもしれない。



 馬男の場合、出世競争の一貫として相手を出し抜くための情報収取に隠しカメラを利用しそうな印象は大いにある。



飲みにケーションや喫煙所での密談といった文化が廃れてくると――その要因は昨今の時流にもあったが、突如として危険な感染症の蔓延する世界を生きなくてはならなくなってしまった人々による自然発生的な要請として、人が集まる行為全般をその規模を問わず自粛するべきといった気運が高まったことによるところも大きい――、いまとなっては一番本音が漏れ聞こえる場所は案外トイレでの何気ない会話だったりするなんていう話が出てくるようになっていた。



 そういった認識に立った場合、盗撮目的でなく盗聴器的な用途として小型カメラを設置するにはおあつらえ向きの場所と言えた。

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