第16話

 しばしの重苦しい静寂があった。俺はこの男の問い掛けに一切答えてはいけないし、それ以前に俺がトイレの個室に隠れていることを自ら認めることは絶対にしてはいけないことなのだという本能的な直感があって沈黙を貫いた……、認めなければ少なくとも事実にはならない。



「まあ、僕と話をしたくないのなら、それでも結構ですけれどね」なんらかしらの思案をめぐらしているような雰囲気で馬男は言った。



「あなたと僕って、けっこう似てると思うんですよね、Kさんに対するスタンスというか……、端的に言えばお互い彼女に悪事を働いているという大いなる共通項があるわけですけれど」と馬音は自嘲気味に言って続けた。「ただ、それを差し置いても、なんとなくあなたとは仲良くなれそうな感覚を抱いているんです、今日はまだ一言も言葉を交わしていないですし、そのせいか心持ち距離感がある感じになっちゃてますけれど、分かり合える気がしています。むしろ最悪の出会いから始まった深い仲みたいな話ってよく聞くじゃないですか」



 冗談じゃない、と思わず声が出そうになる。



「Kさんの魅力について語り合うとか、そんな些細な会話による人間関係の始まり方でも良いと思うんですよ。ほら、中学生とか高校生のころって、友達にクラスメートの誰が好きだとかを打ち明けることってあるじゃないですか、それに応じて相手も照れつつ好きな人のことを教えてくれたりして、結果的に親睦しんぼくが深まるみたいな。修学旅行中の就寝前なんか、みんな妙に高揚しきってて夜話につきものですよね、こういう展開。つまり互いの秘密を共有することで親密度が増すというのは子どもでも大人でも同じ話なわけで。特に僕らなんかはお互い脛に傷があるもの同士、案外思った以上に深い関係性が築けるんじゃないかと思うんです。それに大人になってから友人を作るのって、女性に比べて男だと難しいとかって言うじゃないですか。そういう観点からしてもこれは同僚を超えた人間関係を構築できる滅多にないチャンス、めぐり合わせなのかもしれないって勝手に思ったりしてて……」



 どうやら自分の悪事がバラされないように下手したてに出つつ、俺のことをなんとしてでもこの場で取り入ってしまおうという魂胆らしい。



 考えてみれば、俺は馬男に見つかってしまったことに取り乱してしまって、まったく頭の整理が追いついていなかった。しかし馬男からしたら、ここのところずっと悩みの種として恐ろしい重圧になっていたことが想像に難くない「隠しカメラのことに気付いている人間」の存在、いわば彼にとっての「犯人」をついに追い詰めた思いでいるのだろう。ここで逃したら、もう後はない、そんな血眼になって捜索し続けてきた者の狂気が彼の穏やかで親しみのこもった口調に潜んでいるのではないだろうか。

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