第12話
再びトイレの個室に戻ってきた俺は、細かい花柄の刺繍が入った布製のKさんのマスクを取り出してまじまじと眺めていた。このまま何事もなかったかのように家に持ち帰ってしまいたい衝動があったが、冷静な眼差しで事態を客観視しよとしている自分もいたようで、明日以降Kさんが出社してその紛失に気づいた際に彼女を大いに困惑させることになるだろうし、あらぬトラブルの火種となりかねないかもしれないことまでは想像できていたのだ。そしてそのことで俺は少し怖くなってきてしまっていた。手のひらでぐったりと死に絶えたハダカデバネズミのような存在が蘇生して自分の住処であるKさんのデスクの引き出しへと勝手に走って戻っていってくれたりしないものだろうか……、と急激に弱気になった俺は妙な妄想に憑りつかれだした。深夜に職場に忍び込んでいるということの重大性が突如として現実味を帯びてきていたのだろう、だが俺は同時に勃起もしていた。
自分の硬くなったペニスを衣服の上から手で軽く撫でたりしているうちに、下着とマスクの類似性について改めて考えが及んだ。マスクを盗むという行為は差し詰め下着泥棒に該当するのかもしれないと思い当たり、なぜか急に冷笑的な笑いが込み上げてきた。ただ「マスク」という単語や実物そのものを見聞きして即座に性的な意味合いや記号性といったものを連想することができる人間が一般的であるとは到底思えないので、俺が犯している行為は性犯罪というよりも、せいぜい窃盗やそれに類するチンケな子供の火遊び程度のものとしてか扱われないのではないかと思えてきて、その卑屈で生々しかった笑いは急激に干上がったように口元から消えた。
それでも、このマスクはそこらのチンピラや貧困に喘ぐ若者が金欲しさに突発的に市井の人々からかすめ取った財布やバッグとは意味合いがまるで違うのだ。受付のアンドロイドや監視カメラの目をかいくぐって、深夜に高層ビルの最上階に近い二つのフロアを専有する自分の勤め先へとわざわざ忍び込んでまで得ようとしたマスクである、俺は自分の職とキャリアを賭けているのだ!そのような屈折した義憤に駆られた俺は、全裸になるべく履いていたジーンズのベルトに手を伸ばしてゆるめ始めていた。
コンビニやドラッグストアなんかで売られている箱入りの何の変哲もない不織布のマスクと比べると、装飾の凝ったペイズリーや花柄の模様が施された布製のマスクや不織布を覆うレース地の専用カバーなどは女性用の高級ランジェリーと見紛うばかりの華やかさで、明らかに人に与える印象は異なってくる。Kさんのものと言えば、柄物とは言え控えめな作りである。これが一般的に性的な興奮を誘発するような代物であるかは定かではない。ただ着用しているKさんその人に抱いている魅力と相まって、俺にとっては得も言われぬ感情が沸き起こってくるものとなっていた。それをこうして手にしているのだ。俺は自分の欲求に従うことを決意して全裸になった。
脱いだ衣服は畳んで蓋を閉めた便器の上に置いてある、上司との面談に望む感覚になって自然と「失礼します」と声に出していた。全ての衣服を脱ぎ終えた俺はKさんのマスクを震える手で装着した。
-----------------------------------------
覚悟の自涜 |第12話| 牧原征爾
読了頂きありがとうございます。
★・レビュー・応援・応援コメント・フォロー、大変励みになりますので宜しくお願いします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます