第10話

 トレイの個室の扉を開錠してわずかに開けた隙間から外を覗いてみる。少なくとも目先にある空間に人影はなかった。思い切って個室を飛び出してみる……、その勢いに弾みをつけて、そのまま廊下を無我夢中でどんどん進んでいった。



 視界を部分的に遮るためのブリンカーを着けられた競走馬よろしく視野狭窄に陥ったような状態でKさんのデスクの前に到着してみてから、恐怖心を振り払うように意を決して周囲を大きく見回してみる。廊下よりよほど見通しのきく薄明るいオフィス内には、しかし誰もいなかった。当然というべきなのか、Kさんの隣のデスクにも馬男の姿はなかった。



 パソコンなどの電子機器の電源ランプやスタンバイランプが思いのほか強い光を発して周囲を照らしていた。もっとも、一番の光源はブラインドカーテンの下ろし忘れられた幾つかのはめ殺しの大きな窓から入ってくる外界からの光で、窓際に近いデスクにいたっては周囲の薄暗がりとのコントラストもあってか自ら発光しているようにすら見えるほどまばゆかった。



 ちょうどその時分、この高層ビルのエントランスに近い場所で深夜から朝方にかけてのガス管だかなんだかの道路の全面封鎖を伴う大掛かりな工事をしていて、かなり明るいバルーン型の照明器具を道路の中央分離帯に何本か立てて使用していたことも、あるいはこの高層階にある室内の妙な明るさに関係しているのかもしれなかった。



 俺はそんな周囲の明るさを意識しつつも、速やかにKさんのデスクの抽斗から半月型に折り畳まれたマスクを取り出すことに成功していた。息絶えて間もないまだ温もりの感じられる小ぶりで薄桃色の動物……好ましい表現とは思えないがハダカデバネズミが横たえているように見える……、そんなKさんのマスクを素早く手に取ると、おもむろにその匂いを嗅いでいた。てっきり呼気によってもたらされた使用感のある生っぽい残り香でもするかと思っていたが、意外なことに洗剤や柔軟剤によってよく洗いこまれた清潔感の漂う香が鼻孔に広がった。



 ピッという微かな電子音が背後からした驚きで身体が硬直した。恐ろしさに気圧されながらもゆっくりと振り返ると、俺のデスクの周囲が妙に明るくなっており人の話し声が聞こえてくる。



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覚悟の自涜 |第10話| 牧原征爾

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