第9話

 会社のオフィスが入っている階にエレベーターが到達し、柔らかい電子的な停止音と共に階数を告げるアナウンスが流れた。扉が左右に滑らかに開いた瞬間に俺は馬男うまおとこを振り切るように我先に飛び出して、足元を照らすための常夜灯が巾木はばきほどの低い位置で等間隔に設置された薄暗い廊下を、そのまま一目散に走って突き当りにあるトイレへと駆け込んだ。困惑しきりのこの状況から脱するために、いったん落ち着ける場所で態勢を整えようと試みたわけだった。俺が入ってきたことで人感センサーが作動したようで、トイレの室内には自動的に無機質な青白い昼光色の照明が灯された。



 呼吸が整い、早鐘はやがねを打っていた胸の鼓動が徐々に正常な速さへと戻っていくのが実感された。しかしながら、トイレの個室にこもって便座で身体を抱え込むようにじっと座っていても、この状況を打開する得策や妙案が浮かんでくることはなかった。馬男の存在の鬱陶しさに苛立ち、考えるほどに手の施しようの無い現実が強く認識され、いかんともしがたい焦燥感に急き立てられて悶々とするばかりだった、……どうすればいいのだろう?



 手詰まりの状態に俺の表情も自然と強張っていたはずだ。かたき討ちに臨むような厳しい目つきでひたすら天井を睨みつけつつ、煙探知機の在処も同時に気に掛けていた。胸ポケット内にある好みの紙巻きたばこの箱に一瞬手を掛けたが、煙の発生量を考慮せざるを得ない状況に落胆して、仕方なくポケットに一緒に入っていた副流煙の少ない加熱式のたばこを取り出して、その味気無さで我慢することにした。



 ……それにしてもだ、あの男はいったいどこへ行ってしまったのだろうか?俺のことをどこかで見張りつつ、威嚇だか実力行使のつもりで姿を現しエレベーターに乗り込んできたのだとしたら、その大胆さと執念でもってそのまま俺の立てこもっているトレイまで追ってきてもおかしくなさそうなものだが……。まさか悠長に自分のデスクに直行して明日の会議の準備をしているわけでもあるまいし、俺と同様に馬男側にも何らかの特別な思惑がなくては説明のつかない時間帯における両者の鉢合わせであるはずなのだ。



 ただ奴のよそよそしい態度……、万に一つもあり得そうにない話だが、俺のいることを馬男も本当に知らずに偶然にもエレベーターに一緒に乗り合わせてしまっただけだとしたら……、しかし、そうであるならば、想定外の事態に奴だって相応の驚きを隠せずにはいられなかったはずだろう。それとも単純に俺のことに気づいていなかったのか?いや、あんな狭い空間でそれはありえない……。



 それなら馬男が威圧的な態度を見せてきたのかと言えば……奴はスマホを見ているばかりであったし、かといって当たり障りのない挨拶を交わしてくるでもなく、苦痛ともいえる不自然極まりない沈黙の数十秒が流れていただけなのだ。まさか深夜にオフィスへと忍び込もうとしている俺の方から「こんな時間にご苦労様だね」と気さくに声を掛けるわけにもいくまい。



 相手を不気味がらせることが考えようによっては一種の脅しになると捉えるならば、馬男の目的は十分に達成されていたのかもしれない。ただ奴にとっての本当の関心ごとは俺という存在の有無などどうでもよいレヴェルのものなのでは……?そんな気がしてきていた。何か奴なりの後ろめたくも重大な別の目的があってオフィスにやってきているのではという予感。



 ステンレス製の銀色に輝くトイレットペーパーホルダーの紙切り板上に置いた加熱式たばこの吸い殻の本数を数えてみると既に六本もある。決して回答の明かされることの無い難問奇問の数々……、時間ばかりが無闇に経過しているらしかった。



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覚悟の自涜 |第9話| 牧原征爾

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