第8話

 エレベーターの急激な上昇による気圧の変化のせいなのだろう、耳の中で鼓膜が外側へと押し出されて膨隆ぼうりゅうしたような気持ちの悪い圧迫感が起こった。


毎度のことながらこの不快な感覚に慣れることはなく、俺はエレベーターの扉とは反対側にある分厚いガラスのはめ込まれた窓の外に広がる夜景を見下ろすふりをして、馬男に悟られないように唾をのみ込んだり顎をむやみに大きく可動域いっぱいに開けることで中耳内の気圧調整を図ったりしていた。



 耳の中の気圧の変化などは些細なことであるかもしれないが、高層ビルの上層階にオフィスをかまえる企業というのは、意図的ではないにせよその立地的な高さ故に従業員や社員といった人々の健康を犠牲にしている部分があるのではないかと常々感じていた。「ここの本社ビルに配属されてから咳が止まらないんだ」と言って乾いた感じのする淡の切れ味の悪い空咳を頻繁にする同僚を俺は知っている。


このオフィスの鎮座しているフロアの標高の高さのせいで、彼の肺の機能は徹底的におかしくなってしまっているのではないだろうか?



 ただ、そんな俺の心配をよそに彼は「本社に栄転になって本当に幸せを感じてるんだ。それに、ここから見下ろす下界は気持ちいい。貧民窟を覗き込んでいるような気分になれてさ」と耳障りな甲高い咳を挟みながら、こちらの耳を疑うような選民意識に支配された偏りのある考え方を苦しそうに披瀝ひれきするのだった。


たとえ自分の健康が犠牲になろうとも、数多の競争相手たちを蹴落とし、少しでも経済的・地位的に優位に立てるのであれば本望……、向上心の塊と言えば聞こえはいいが、その意識の高さが先鋭化するといずれ他者を蔑む選民意識へと繋がってくる場合が多いのかもしれない。


同僚や上司にはすこぶる気のいい奴なのに、自分よりも下流の人間だと認識した相手には、その瞬間から冷酷無比な態度をとるようになる歪な性格、そして生き方。


そうなってしまったのは苦労多き叩き上げという環境要因のせいだろうか……、それでは逆に生まれ持って恵まれた環境で育った上流階級の人間はどんな相手に対しても慈愛に満ちているということになるのだろうか?


俺はそこまで考えて馬鹿らしくなってしまった。



 馬男の出現によって気が動転したのか、俺の思考は走馬灯のように場にそぐわない混濁こんだくしつつも無闇に鮮明な思いや記憶を一瞬にして呼び起こしていたが、こんな誰もいないはずの時間帯に奴と同じエレベーターに乗り合わせているという信じられない状況を、徐々に疑いようのない現実として認識し始めざるを得なくなっていた。



 馬男は確実に俺のことを張っていたのだろう。


待ち伏せしていたとしか思えないほど見事なタイミングでのエレベーターへの滑り込みという離れわざを、わざわざ俺に見せつけてきたのだから、見張りなんて生易しいものではなく、奴によるほとんど威嚇いかくに近い行為に俺はさらされているのかもしれなかった。俺の次の動きかた次第では威力的な行為もさない覚悟がある……、そんな恐怖心が植え付けられた気がした。



 ただ、窓ガラスに反射して見える奴の姿は、エレベーター内の側面の壁を背にして前屈みの格好でいじけたようにひたすらスマホをいじっているばかりで、こちらのことを一向に見ようとしてこない。


窓ガラスへの映り込みを利用してこちらが相手の様子を伺っていることを想定したうえで、あえて見ないようにしているのかもしれなかったが、奴の面長な表情からは、どうしてもそういった計算高い狡猾さのようなものを感じとることが出来なかった。


ただ、あの大胆な登場の仕方に比べて、もしそのような謎めいた配慮があるのだとしたら、相当に厄介で不気味な相手としか言えなかった。



 それに日中のあの監視するように絡みついてきた視線の件もあるし、こんな時間帯まで会社に残って、やって来ないかもしれない俺のことを延々えんえんと待ち構えているという驚異的な胆力を持ち合わせているのだと考えると、常軌を逸しているし危険すぎる男であった。間延びして愚鈍そうでいて……、もしかしてその印象を逆手に取るというのが、馬男の策略であり処世術なのかもしれないという思いがよぎった。


この男は自分の相貌そうぼうの利点を生かして、Kさんに擦り寄り、出世街道を突き進んできたのかもしれない、こんなダークホースが俺のデスクの目と鼻の先に潜んでいたなんて……。



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覚悟の自涜 |第8話| 牧原征爾

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