第6話

 はたしてこの交通費は経費扱いになるだろうか、乗車している時間帯がおかしいことに気付いた経理の担当者からネチネチと問い質されたりしないだろうかといったことを考えながら、俺は都心方面にある職場の高層ビルへとタクシーを走らせた。終電の時間もとうに過ぎて、駅周辺の街並みと共に車窓を流れていく人の影はまばらだったが、酔漢の怒声が響いたり、よわい十代も半ばにしか見えないような子供たちとホームレスたちが渾然一体となってたむろしている広場などが目に映った。酒を飲み交わしているのだろう、スラム街を思わせるよどみがその一帯だけに滞留しているようだった。


 交差点に差し掛かり赤信号で停止していると、ドンッという音と共に車体が軽く揺れた。タクシーのトランクあたりを誰かに叩かれたらしい。振り向いて後方を見やると、俺が乗っていることに気付かなかったのか、乗車拒否をされたと勘違いしたらしいカップルと思しき男女がいて、女の方が般若のような形相でこちらに向かって喚き散らしているのが見えた。少なくとも酔っぱらってはいるのだろうが、酒が入っただけでそこまで荒ぶるものかと圧倒されつつ訝しんだ。


「お客さん、すいませんねえ」と運転手が自分の失態かのようにして詫びてくる。「物騒だなあ」と俺はぼそりとつぶやいて運転手の頭皮の覗く禿げかかった後頭部を見つめていた。どこの馬の骨ともわからない人間を毎回道端で拾っては車を走らせるという仕事に嫌気がさしてこないものかと、同情というより蔑みに近い感情を抱く。自分が接客業に向いていない性分ということもあるが、こんな仕事は絶対にしたくないなとタクシーに乗るたびに思う。


 それに「タクシー」そのものについて考えてみても、乗客からすると走行している間は無理やりドアを開けて飛び降りたりでもしない限り実質的には動く密室のようなものだが、ブレーキを踏めることのできる立場である運転手の方だって、場合によっては都合よく車を急停車できないこともあるだろうから、もしも後部座席に乗車している客が頭のおかしいイカれた奴だと分かったとしても、即座に車を停めて逃げ出すことができないこともあるだろう。それにタクシーを置いて逃げだとして、客に車を破損されたりしたら修理代は会社持ちなのか、それとも一部であっても自腹を切らされたりするのか。運転手がタクシーの近くに留まっていなかったことが保険の適用される条件で揉めることになったりするのだろうか?


「この辺でいいです?」とバックミラー越しに運転手がこちらを見つめながら尋ねてくる。

「じゃあ、ここで」

「三千円になります」と言われて万札を手渡しながら「一万円で領収書切ってもらえる?」と伝えると「えっ、あ!いいんですか?」と俺の方を振り向きながら六十歳前後と思しき薄毛の運転手が驚いたように言う。壊れかけているのか眼鏡フレームの丁番のあたりを何重にも貼られた黄ばんだセロハンテープかなにかで補強していた。俺は相手の問い掛けは受け流して、手渡された領収書を受け取るとタクシーから降りた。意外にも小雨が降っており、傘なんか持ってきてないぞと思いながら雨粒を確認するのに夜空に向けて手をかざしていると、背後から「ありがとうございます」としゃがれた声がしてタクシーの扉が閉まる音がした。



 職場の入っている高層ビルに到着してエントランスに入ると「こんな時間に大変ですねえ、ご苦労様なことだよ」と老いぼれた警備員から同情するような声を掛けられた。



 出社する人々が忙しなく交差する朝の喧騒と打って変わって、深夜の誰もいないがらんどうのエントランスホールにあっても、この年老いた警備員は律儀にマスクをしっかりと着用しているのだが、サイズが大き過ぎるのか目元の近くまで覆われてしまっていて思いのほか頼りない印象を受ける。



 そして七十歳前後を思わせるしおれた老体に鞭打って夜勤をこなさなくてはならないこの小柄な老人の境遇に対してタクシーの運転手には抱かなかった同情の念がわき起こったのだが、老後を安泰あんたいに過ごせる身分の人間など今となってはむしろ少数派であろうから仕方がないことなのかもしれないと思いなおした。



 経済大国として名を馳せた過去の栄光にすがっている、旧態依然きゅうたいいぜんとした現状認識に大きなブレのある世代や特定のグループ・団体もいまだにいるようだが、本邦はすでに衰退途上国と言われて久しい。


それは周辺諸国の猛烈な追い上げと、台頭してくる様子を見ていれば認めざるを得ない事実であったし、国内の情勢を顧みても一寸先は闇……、そんな貧困と隣り合わせの現実があった。



 金のない老人のことは見捨てつつ、働き盛りの世代には重税を課して、育児・保育や若い世代の教育に対しては財源をけっして振り分けようとしない。


一部の「上流国民」を除いて、もう誰も助からないのではないか……、そんな絶望のようなあきらめが世の中に蔓延しつつあった。



 ……だから夜勤の警備であったとしても、年老いてもなお仕事があるというだけで、まだ恵まれている方なのだと言えるのかもしれなかった。


悲しき現実ではあるが、この老人は恵まれている側の人間なのだ……、そんな風に考え直して俺はつかの間の楽観に浸る。



 ただ、万が一の時にこの老人が警備員としてどんな働きができるのだろうかという素朴な疑問は残っていた。



 例えばこの高層ビル内においてちょっとした騒動が起こってしまった際に、ガードマンとしてこの老人が現場へ駆り出される事態があったとして、騒動の渦中にある特定の人物を説得したり抑え込んだりすることを職務上求められているにもかかわらず、むしろ物見高く集まってきた野次馬などの人込みの方に押されたり飲まれたりして、彼の方が倒れ込んでしまう可能性の方が圧倒的に高いのではないか?……そんな疑問である。


ストレッチャーに横たわって救急搬送される警備服を着こんだままの老人の姿が容易に想像できてしまうのだった。



 ふと気づくと、老いた警備員は俺のことをまだ見つめていた。


マスクに覆われて口元は見えないが、三日月型となった目元から推察して、どうやら破顔はがんしているようだった。俺は思わず「ご苦労様です」と絞り出すようなかすれた声で老人に返事をしていた。


それが精一杯だった。



 すると挨拶を返されたのがよほど珍しいことだったのか、老人は驚いたような丸い目つきになってなにかいぶかしんでいる様子なのだ。


俺はそれが少し不気味に感じてしまい、なによりいらぬ詮索せんさくをされるのも厄介なため足を速めた。



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覚悟の自涜 |第6話| 牧原征爾

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