第3話

 その日は、保育園に通うKさんの四歳になる息子さんが発熱したとのことで、すぐに迎えに来てほしいと園側から職場に電話が掛かってきていた。


その報告を事務から受けたKさんは、彼女としては珍しく血相を変えて取り乱した様子で「どうしよう、どうしよう」と自分のデスクで小さく独り言ちていた。


息子がウイルスに感染したのではないかと気が気でなかったようで、そのただならぬ怯えた様子に周囲の人たちも彼女のことを気にかけ始め、「早く迎えに行ったほうがいい」などと同情するように促していた。


その後、大波にでも飲み込まれたかのような荒々しい身のこなしで帰りの支度を済ませて、業務に関する簡単な言付けと共に「ごめんねえ」と隣席の部下に焦燥しきった表情で告げると慌ただしく退勤していってしまった。



 俺は対面からその経緯のほとんどをつぶさに眺めていたのだが、そのため彼女のとったある動作も見落とさずにすんだのだった。


それは俺にとって衝撃ともいえることだったのだが、Kさんは社内用と屋外用でマスクを使い分けしているらしく、先ほどまで着用していたマスクを自分のデスクのひきだしにしまっていったのだ。



 俺の知る限り、同僚や部下でマスクの使い分けなんて気の利いたことをしている者はいなかったし、それは少しやり過ぎなのではないかという気がしないでもなかった。


ただ子持ちの母親や保育園で働く保育士たちからしたら、小さい子供が身近な存在であるがため、感染のリスクを限りなくゼロに近づけたいという発想に基づき、そういった配慮は当たり前こととして受け入れられ習慣化されているのかもしれないと思い当たった。


それぐらいごく当たり前のこととしてKさんはマスクを交換して退室していったわけだが、俺はそこから気が動転してしまって仕事どころではなくなってしまっていた。



 あのデスクの引き出しの中に、Kさんがさっきまで使っていたマスクが入っている……、たったそれだけのことなのだが、信じられないほどの興奮がまず起こった。


何かひどくいかがわしい事態を目の当たりにしているようで、血圧の急激な変化でも起こったのかこめかみの辺りに強い脈動を感じた。そして勃起までしている……。


Kさんのマスクが彼女のデスクの中に仕舞われているというたったそれだけのことに対して、俺はいったい何を考えて、こんなに興奮しているのだろうか……、そんな白々しい自問自答をしたところで虚しくなるばかりだった。



 あのマスクをまず手に入れたい、それで何をするかということに関しては手元に置いていてからじっくり考えればいいじゃないか……。


ただ、問題はどうやってあのデスクの引き出しを誰にも悟られずに開けるかということで、まだ周囲には同僚や上司に部下といった人々が多すぎて、Kさんのデスクの前に手持無沙汰に突っ立っているだけでも違和感があるし、デスクを詮索するなんてことはまず不可能なことだった。


業務をこなすわけでもなく時間だけが刻々と経過していき、俺は無策のままあえなく退勤の時間を迎えた。



 部屋を出ようと彼女のデスクの横を通り過ぎるとき、そのまま手を伸ばせば簡単にマスクを取り出せそうな位置にいながら、彼女のデスクの隣に座る間の抜けた馬面の彼女の部下が、従順な見張りのようにして、こちらの挙動を目で追っているのが分かったため、何食わぬ顔でやり過ごすことが精一杯だった。



 あのだらしなく間延びした顔つきからは想像もつかないほどの深い洞察力を兼ね備えているのかもしれないと思わせるねっとりと粘着質でこちらの身体にまとわりつくような嫌な視線だった。


まさかKさん直々に俺のことを見張っておくようにと彼に命じたわけでもあるまいだろうし、どういった料簡であの馬男は俺のことをしつこく見ていたのだろうか……。


俺は尻尾を巻いて逃げ出す犬さながら、徹底的にやり込まれた気分で部屋を後にした。


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覚悟の自涜 |第3話| 牧原征爾

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