妄執のメロディ

吉永凌希

第1話

 雑踏の隙間から洩れてきた軽やかなピアノの音色に、僕はふと足を止めて耳をそばだてた。

 場所は昼下がりの駅のコンコース。その片隅に置かれたストリートピアノが音源だということは、毎日のようにここを歩いて通勤している僕には、すぐに察しがついた。

 通勤? まあ通勤には違いない。しがないアルバイトだけど。

 今日も早朝のシフトに入り、惰性で仕事を終え、誰も待つ者のない家路をたどる僕の足を止めたのは、ピアノの音色そのものではなく、音色が奏でる聴き覚えのあるメロディだった。

 改めて耳をすまし、ざわめきの中から音をたぐり寄せる。曲の進行と歩調を合わせるように、鼓動が速くなっていった。

(間違いない。この曲は……)

 吹きつけるような懐かしさと、探し求めていたものを間近に捉えた高揚感がこみ上げてきて、胸の奥がジーンと熱くなった。

 この曲を初めて聴いたのは、五年前のまさにこの場所。

 当時、僕は二十一歳の大学生で、あの時もバイト帰りだったと記憶している。

 電車を降り、夕方のラッシュで混雑するコンコースを抜けてアパートに急ぐ僕の耳に、軽やかなピアノの音色としとやかな女性の歌声が届いた。この上なく透明感にあふれていながらしなやかさを秘め、それでいてどこかはかなさを感じさせる魅力的な声。

 吸い寄せられるように、設置されたばかりのストリートピアノの方に足を向けた。

 そして目の当たりにした演奏者は──声から受ける印象と同じように、強烈な存在感を醸し出しながら、どこか寄る辺なさを漂わせる可憐な女性だった。雑然とくすんだ景色の中で、そこだけが鮮明な彩りを帯びている。

 それが鴨沢彩歌かもざわあやかとの出会いだった。


 内向的な自分のどこにそんな大胆さが秘められていたのか、ふと我に返ると僕は、歌い終えた彼女に最大級の賛辞を贈っていた。

 当時、僕も大学で音楽系のサークルに入ってギターを嗜んでいたこともあり、心得顔で「艶やかな高音の伸びに鳥肌が立った」とか「シンコペとゴーストノートの入れ方が凄く巧み」などと、声を上ずらせながら熱く語りかけたことを覚えている。

 近くで見ると、彼女の容貌から受ける線の細さやはかなさは、歌声以上に印象的だった。人前で堂々と演奏し歌唱するパフォーマーとは、到底思えない。

 僕は精一杯の勇気を奮い起こして、彼女の名前とこれからの演奏の予定を尋ねた。

 そういった聴衆からのリアクションに慣れていないのか、彩歌は面食らった様子だったが、

「鴨沢彩歌といいます。どうかよろしくお願いします」

 と名乗り、少しはにかんだような笑顔で頭を下げた。

 加えて、自分がミュージシャン志望であること、ストリートピアノライブと銘打って今月から毎週土曜日の夕方にここでオリジナルソングを中心に演奏したり歌ったりする予定であることを、快く教えてくれた。

 それから、僕は彼女のライブに足しげく通った。

 後でわかったことだが、お互い同い年の大学生だったうえ、音楽の話ができるせいで、彩歌は徐々に打ち解けた素振りを見せてくれるようになった。

 身の上話も交わした。両親は早世して複雑な環境で育ち、今は腹違いのお姉さんと二人暮らしだと言っていたっけ。

 そんな交流を続けながら、僕がミュージシャンとしての彩歌以上に女性として彼女に惹かれていくのは、自然な流れだったように思う。

 出会って半年が経った頃、ライブの聴衆の誰かが投稿した動画がきっかけで、ネット上で彩歌のことが頻繁に取り上げられるようになった。

 メジャーデビューが取り沙汰される中、自分の気持ちを抑えられなくなった僕は思い切って彩歌に告白したが、彼女は少し頬を赤らめながら当惑した顔で「今は音楽に打ち込みたいから……」と言った。

 その直後、うわさどおりに彩歌のデビューが決まった。ストリートピアノのライブが幕を下ろすと同時に、今までのように会うことも叶わなくなり、次第に疎遠になっていったのは、これも必然だったのだろう。

 彩歌の活躍ぶりを横目で見ながら、僕自身も就活やそれに続く社会人生活で多忙になり、そのまま一年が経過した。

 当初は順調に見えた彩歌の音楽活動だったが、この頃から陰りが現れ始める。

 もう直接会うことなどできなくなっていたが、人づてに聞いた話では、所属事務所やレコード会社との方針の違いによって、自分の思うような曲を作ることができず、スランプに陥っているということだった。

 次第に彩歌の名前が人々の口に上ることもなくなっていき、さらに一年ほど経ったある日、僕は久しぶりにネット上で彩歌の名前を見つけた。それは彼女が交通事故で負傷したことを報じるものだった。

 そして彩歌は、その災禍を機に芸能活動から身を引き、ひっそりと姿を消してしまったのである。

 しかし、僕の彩歌に対する恋情は再び燃え上がることとなった。

 あれほど純粋に音楽に打ち込んでいたのに、花咲くことなく枯れようとしているなんて悲しすぎる。何とか彼女を探し出して、復活を手助けしてやりたい。

 僕はしばらくの間、余暇のほとんどを費やして彩歌の足取りを追った。しかし成果ははかばかしくないばかりか、その過程で僕はショッキングなうわさを耳にした。

 彩歌が事故の影響で記憶喪失になっているというのだ。

 ともすれば折れそうになる心に鞭を打ちながら、僕は二年近くにわたって細々と捜索を継続していたが、さすがに迷いと諦めが心の容積を占めるようになってきた矢先だった。

 奇跡のように、あの懐かしいオリジナル曲を耳にしたのである。


 僕は、彩歌から見て右斜め前方、グランドピアノの屋根を支える突上棒越しに、彼女の視界に入る位置に立ち、鍵盤を操る彩歌の顔を凝視した。

 昔に比べて少し丸みはなくなったようだが、間違いなく彩歌だ。ピアノを奏でる時の童女のようなあどけない表情やしなやかな身体の動きは、あの頃と少しも変わらない。

 記憶喪失がうわさどおりだったとして、ここで昔のようにピアノを弾いているということは、あるいはすでに記憶を取り戻しているのだろうか。

(彩歌、やっぱり君の原点はここなんだよ)

 そんなことを心の中で訴えかけながら、少しずつ距離を詰めて彼女の横顔を見つめる。

 すると、彩歌を挟んで僕と相対する位置に一人の女性がたたずんでいるのが目に入った。

 おそらく僕と同じように熱のこもった眼差しで、彩歌を見つめている──のだが、どういうわけかその視線は、彩歌を通過して僕に向けられているように感じるのだ。

 彩歌との距離の近さから察するに、通りすがりの聴衆ではなく、彩歌の関係者ではないか。芸能関係か、あるいは肉親? それにしては、容貌に似かよったところがない。

 何となく放置しておけないような気がして、僕は聴衆の背後を迂回してその女性に近づき、声をかけた。

「あちらで演奏されている方、鴨沢彩歌さん……ですよね?」

 二十代後半と見える女性は、僕の顔に真正面から視線を向けて、おもむろに頷いた。

「そうです。ご存知ですか?」

 やはり彩歌の関係者らしい。ただ僕は、彼女の声色に何やら得体のしれない不気味さを感じた。僕の出現を予期していたような響きがこめられていたのだ。

「はい。彩歌さんがデビューする前にここで知り合って……たびたびライブを聴かせてもらいました」

 女性の表情が動いて、少し驚いたような顔になった。

「彩歌さん、二年ほど前に事故に遭ったという噂を聞いたんですけど……」

 不躾な問いかけに女性は今度は無言で頷き、しばしの沈黙の後、切り口上気味に口を開いた。

「私、彩歌の姉で絵里と申します。血はつながっていませんけど」

 なるほど、そういうことか。道理で似ていないはずだ。

 身分を明かした彩歌の腹違いの姉は、やや冷淡さを感じさせる口調で、彩歌が災禍に見舞われた経緯を語り始めた。


 メジャーデビューを果たしたものの彩歌は、自身の求める音楽性と周囲からの要求とのギャップに悩み、壁にぶつかっていた。曲を書いても認めてもらえず、次第に自宅に引きこもるようになり、事故に遭った時はうつ状態に陥っていたという。

 事故の詳しい状況までは、絵里は語ろうとはしなかったが、半ば自殺ととれなくもない状況だったらしい。

 ともかく路上で自動車に接触して重傷を負ったものの、命に別条はなく、外目には酷い痕が残ることもなかったのだが、見えない箇所に深刻な影響が及んでいた。

 うわさどおり記憶を喪ったのである。自分の名前はおろか、亡くなった両親や異母姉である絵里のことも思い出せなかった。

 唯一の救いは、音楽の技能を失っていなかったことである。ピアノを弾いたり歌を歌ったりすることは、以前と変わりなくこなすことができたのだ。

 事故後も医療上の努力は続けられていたが、記憶回復の兆しは見られなかった。

 そこで絵里は、ストリートピアノの演奏に一縷の望みをかけたのだ。彩歌の音楽活動の原点になったストリートピアノでのライブを再現することで、何か彼女の記憶に刺激を与えることができるのではないか。

 絵里は、伝手を頼ってピアノの設置管理者に事情を話し、許しを得たうえで、彩歌はありし日のようにここで演奏し、歌っているのだった。


 一曲目のピアノソロに続いて、音楽関係者らしい壮年男性が操るアコースティックギターとのコラボ曲を終え、彩歌は三曲目のイントロを奏で始めていた。

「これ……『未来へ』だ」

 曲のタイトルが思わず口をついて出た。明るい曲調のミディアムナンバーで、彩歌のオリジナルソングの中では僕が一番好きだった曲だ。別れと旅立ちがテーマだって、彩歌が言っていたな。

 軽やかなのにどこか潤いを帯びた声で、彩歌は弾き語り始めた。


 思い出をありがとう

 遠い目をしてほほえむ君が 大人びて見えた

 あふれんばかりの記憶のフォトグラフ

 心のアルバムにしまって


 明日への扉を今 開こう

 新しい君を見つけるために

 そのきらめきを ずっと絶やさずにいて

 夢をかなえるときまで


 歌い終わり、彩歌は鍵盤からそっと指を離して、深い吐息を漏らした。そのまま十数秒ほど俯き加減に目を閉じていたが、おもむろに顔を上げて、自分の表情を注視していた傍らの異母姉を振り返る。そして、ゆっくりと頭を振った。

 その拍子に、彩歌の視線が僕の顔をゆっくりと横切り、一瞬、視線が交差したように思えた。僕の胸の鼓動は急激に高まったが、一方の彩歌の表情には特に変化はない。

 その時、不意に僕はあることを思いついた。

(記憶を取り戻すために、過去の経験を再現することが有効なら……)

 僕は、さっきアコースティックギターでコラボ演奏した男性に頼んでギターとイスを拝借し、彩歌の真横に位置を占めた。

 少し驚いたような怪訝な表情で、彩歌は僕の動きを見守っている。その瞳には依然として、僕を旧知の人間だと認める気配は浮かんでいない。

 だが、僕はゆっくりとイントロのアルペジオを奏で、歌い始めた。


 温もりだけが見えない瞳 閉ざされた心の鼓動

 虚しさ抱えて漂い続ける あてのない想い焦がして


 失恋をテーマにした僕のオリジナル曲。彩歌に贈ったものだ。彩歌の歌った『未来へ』とは逆に、聴く人の気持ちを底冷えさせるような、物哀しい歌詞と曲調である。

 久しぶりにギターを手にしたので指が滑らかに動くか心配だったけれど、この調子なら大丈夫だ。

 それに、行きずりの聴衆なんかどうでもいい。ただ、彩歌の耳に、心に届けたいんだ。


 疲れ果てた身体 横たえる 真っ白な空間に

 無気力な魂は無限の闇へと 真っ直ぐに堕ちていく


 常闇の空間を落下する自分を想像しながら閉じていた眼を再び開き、彩歌の顔に焦点を戻した僕は一瞬、戦慄が背筋を貫くのを感じた。

 彩歌がつぶらな瞳を見開いて、僕の顔を凝視している。そして、その可憐な面を彩る驚愕の色が、猛烈な勢いで濃さを増していくのだ。

 まさか──記憶が──戻った!?

 しかし、頭の中で即座に否定する自分がいる。

 過去二年間にわたる治療がすべて無為に終わったというのに、この程度の演出でそんな簡単に回復するはずが──

 でも──

 延々と続くかと思われた期待と失望のせめぎ合いは、やがて劇的な幕切れを迎えた。

 彩歌の唇が「……じゅんや……」と、僕の名前をつぶやくように動いたのだ。

 食い入るように彩歌の表情の変化を見つめていた絵里が息を呑み、両手で口元を押さえる気配が、視界の端から伝わった。


(やっと思い出してくれたんだね、彩歌。そう、僕だよ)

(また、僕のところに戻ってきてくれたんだ。もう二度と放さない。離れないよ、彩歌)

(どんなに嫌がられても疎まれてもいいから──また、あの頃のように──)


「恐怖にうち震えてくれよぉぉぉ!」


 彩歌のデビュー直前、意を決して自分の想いを伝えたけれど、彩歌は受け入れてくれなかった。

 次第に疎遠になり、関係は自然消滅していく流れだったが、僕の想いは募る一方で、彩歌に対する妄執は日々昂じていった。そして僕は、影のように彩歌の身辺に侍ることを決意した。

 彩歌の部屋の近くで彼女の帰りを待ち伏せた。

 仕事に出かけるところを捕捉して、仕事先まで尾行した。

 彼女の部屋の郵便受けに求愛の手紙を何通も残した。

 頻繁にメールでメッセージを送り、その合間に電話も鳴らし続けた。

 嫌悪の態度を露わにし始めた彩歌に対して「これで最後にするから」といって面会を強要し、隙を見て彼女のスマホにGPSアプリを入れた。

 つぶさに彩歌の行動を追跡し、偶然を装って彼女につきまとった。

 たまりかねて彩歌は引っ越ししたけれど、移転先に忽然と現れた僕を見た時の彼女の表情──恐怖と嫌悪に醜く歪んだ美しい顔──は最高だったな。

「僕を受け入れてくれないのなら……死ぬよ」と迫ると、

「お願いだから、もうやめてよ、こんなの。嫌いよ」と、憎しみに燃える瞳を涙で潤ませ、僕を睨みつけてから走り去って行ったっけ。

 そして──それが最後だった。

 さっきの絵里の話からすると、どうもその直後に事故に遭ったらしい。よろめくようにふらりと車道に倒れ込んできたという目撃証言があることから、半ば心身喪失の状態だったのではないか。とすると、事故の遠因を作ったのは僕だということになる。

 その点は責任を感じないわけではないが、ともかく、あれから二年の空白を経て、彩歌はたった今、僕のもとに帰ってきた。

 その表情に貼り付いた驚愕が、記憶の回復を如実に物語っている。かつて僕からひたすら逃げ惑っていた頃に、彼女がたびたび見せてくれた懐かしい表情だ。

 ああ、身体の芯から悦びの震えが全身に伝わっていく。

(また、あのときめきの日々が始まるんだね)

(でも、もう大丈夫。今度は大事に大事にいじめてあげるから、その可憐な顔を再び苦悶で歪めてほしいんだ)

(精一杯、苦しんでくれ。僕を愉しませてくれ。そして、僕を受け入れてくれ)


 ふと、背中の一箇所に痛みを覚えた。

 そこから熱く痺れるような感覚が背中全体に広がり、少し遅れて、生温かい液体が衣服の隙間を伝わる。

 僕はおもむろに首を曲げて後ろを振り返った。

 そこには絵里がいた。両手で朱に染まったナイフを握りしめて……。

 絵里が?

 僕を刺した?

 どうして?

 背中に腕を回して傷口を手のひらで押さえながら、僕は思わずうずくまった。その顔を覗き込みながら、絵里が微笑む。凍てつくような冷たい笑みだ。

 次第に薄れていく意識の中で、憎悪に満ちた絵里のささやきが耳の奥に残響していた。

「ストリートピアノを餌にあなたをおびき寄せて、彩歌の記憶を回復させる試みは成功したわね」

「でも、あなたの役目はここまで。彩歌を虐げ、追い詰め、壊した報いを受けて、あなたはあの娘の前から永遠に姿を消すのよ」

「私にはわかるの。あなたは必ずまた彩歌を破壊する。ボロボロになるまで、あの娘を虐げる。そんなこと、絶対に許さないわ」

「彩歌は誰にも渡さない。あの娘は私だけのもの。永遠に私だけの──」


 ─了─

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妄執のメロディ 吉永凌希 @gen-yoshinaga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ