7章

7章-1

 まだ半分も回していないのに、ドアノブはがちゃりと硬い音をたてて止まってしまった。いくら力を込めても、これ以上はぴくりともしない。錠がかかっているのだ。

 わたしはつれない灰色の扉を恨めしく見つめながら、小さくため息を漏らした。

 ……どうしちゃったんですか松永先輩。空はこんなにも気持ちよく晴れ渡っているというのに。


 三年生の教室は東校舎の一階に位置している。真っ先に陽が陰る場所のせいか、まだ四時をすぎたばかりだというのに廊下はすでに薄暗くなっていた。しかし刻一刻と濃くなる闇とは裏腹に、昼休みであるかのような賑わいを見せている。

 放課後、わたしたちの学校では三年生のために補習が行われている。それは表向きは希望者のみということになっているものの、全生徒志望校合格という旗印のもと、部活動や塾など学校側が認める正当な理由でもないかぎりは事実上参加が義務づけられているようだ。来週から期末試験が始まるため部活動が全面禁止になっていることもあり、今日はほぼすべての三年生が出席するのではないだろうか。

 補習が始まるまでまだ時間に余裕があるらしく、三年生たちは教室や廊下で思い思いに苦行前のわずかな安息の時をすごしている。その様子をわたしは廊下の外れから眺めていた。

 どうして松永先輩は屋上に来ないのか――そのことが気になっていた。

 これまでも松永先輩が来ておらず、屋上に入れなかったことがなかったわけじゃない。だけど、今回はこれで五日連続だ。こうも不在が続いたことはなかった。それに、来ないときは天気が悪いといった明確な理由があったのだけど、梅雨が明けてからというものずっと晴天続きなのでそれは当てはまらない。何か別の事情があるのだ。

 一番妥当な理由は補習に参加しているというものだろう。先輩も受験生なのだから、そろそろ進路のことが気になり始めてもおかしくないだろうし。でもそれなら、わたしに一言くらいあってもよさそうなものだけど。

 理由がなんであれ、直接先輩に聞けばはっきりするはず。――そう思ったからこそ、わたしは松永先輩に会うため、こうして三年生の教室までやって来たのだった。

 一階の教室や廊下は、三階のそれとまったく同じ作りになっている。だけど、わたしにとってそこはまったくの異界のように感じられた。床のリノリウムのひび割れや、掲示板に貼られたポスターのへたれ具合にいたるまで、わたしたち一年生の幼い世界にはない時間の重みがあるようの思われた。

 行き交っている生徒にしてもそうだ。同じ制服を着ているというのに、一年生と比べてはるかに大人びて見える。たった二年早く生まれただけでこうも違うものなのかと思わずにはいられない。二年後にはわたしも、下級生からそのように見られるのだろうか。まったく想像ができないけども。

 そんな三年生の世界を前にして異分子であるわたしはすっかり怖じ気づいてしまい、目の前に広がる光景を消火栓の赤いボックスの陰から窺うことしかできずにいた。

 尻込みしているわたしの目に、ひときわ目立つ一人の女子生徒の姿が映った。目立つといっても、松永先輩のように髪を赤く染めているといった理由ではない。男子生徒のように短い彼女の髪は、ごく普通の黒だった。その女子生徒が目立つ理由は身長だ。一緒にお喋りをしている他の女子生徒たちよりも頭ひとつ以上大きいのだ。周りにいる男子生徒にも彼女より背の高い人は見当たらない。

 わたしでは二年後どころか、一生かかってもあそこまで大きくなることはないだろうな。沢田さんならどうかわからないけど。

 わたしがその女子生徒の姿を見ながらそんなことを思っていたところ、不意に彼女がこちらを向いた。

 ……目が合ってしまった。

 彼女からすれば、わたしなど路傍の小石程度の存在にすぎず、ほんの一瞬目が合ったくらいでは気にも留めやしないだろうと思っていた。

 しかし、その予想は間違っていた。

 不意に黙り込んだ彼女を不思議に思った女子生徒が声を掛ける。彼女はその女子生徒に何事かを言う。制止するような素振りの女子生徒に彼女は軽く手を振ると、仲間の輪から離れ――こちらに向かって歩いてきた。

 その足取りは大きな体からは想像できないほど軽やかだ。前方を遮るように立っている生徒を右へ左へとステップを踏むようにすいすいかわしながら、一路わたしに迫ってくる。

 思わぬ事態にわたしは慌てふためいてしまった。

 わたし、何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか? さっき目が合ったのが睨んでいるとでも思われてしまったのだろうか? それとも、わたしが場違いな異分子だから? 文句を言われたりするのだろうか? いじめられたりするのだろうか?

 わたしは一刻も早くこの場から――彼女から逃げ出そうとした。だけど足が竦んでしまい、どうしても動くことができずにいた。

 ついに目の前までやって来た彼女は、わたしに向かって言った。

「あなた、一年生よね? 三年生の教室に何かご用?」

 その声は見た目の凛々しさによく似合うハスキーボイスだった。でもそこには「どうして一年のくせにこんなところにいるんだ!」というような威圧的なところは微塵もなく、むしろ優しげだった。しかも、わたしの背に合わせるように軽く屈み込んで話してくれている。それだけで彼女がいい人なのだということがわかった。

 わたしは身を固くしたまま口が利けなかった。彼女のことが怖かったからじゃない。彼女を見た目で判断し、勝手な憶測で恐怖したことがこの上なく恥ずかしかったのだ。松永先輩と初めて会ったときも同じ失敗をしたというのに、我ながら学習能力のないやつだと思わざるを得ない。

 彼女のもとに一緒にお喋りをしていた女子生徒たちが集まってきた。

「つばさ、どうしたのよ。突然、用があるから外れるだなんて言うからさ」「ちょっとこの子のことが気になったものでね」「わぁ、この子かわいいー」「ねえあなた、アメちゃん食べる?」「こらそこ、餌付けしない!」「で、この子はいったい誰なわけ? あんたの妹?」「違う違う。うちの妹はこんなにかわいくないわよ」「そうよねぇ。つばさの妹じゃね」「……ちょっと、なによその言い草は」「ごめんごめん。悪気はないのよ」「どうだかね……。この子が誰かはわたしも知らないのよ。ただ、さっきからここでおろおろしていたから、心配になって声をかけてみたんだけど」「あー、なるほどね。あいかわらず世話焼きおばさんっぷりを発揮しているってわけか」

 女子生徒たちから快活な笑い声がこぼれる。

 彼女――〝つばささん〟というらしい――は、「おばさんは余計よ、おばさんは」とふてくされたように口を尖らせる。その様子がわたしの知っている誰かに似ているような気がした。

 いったい誰だったろう?――と考えていると、つばささんが大きなため息をついた。

「だけど、この子何も答えてくれないのよね。やっぱり三年相手だと話しづらいのかな?」「それもあるだろうけど、一番の原因はやっぱり相手がつばさだからじゃないの」「どういう意味よ、それ」「だってさ、突然あんたがそんなでかい図体引っ提げて現れたら、どんな相手だってびびって固まっちゃうって」「あはは、それは言えてるわ」

「何よ、失礼な!」「違います!」

 むっとしたつばささんの声と、思わずわたしが発した声とが重なった。

 これには女子生徒だけでなく、つばささんも驚いたようだ。これまで黙り込んでいた人間が、突然声を張り上げたのだから当然だろう。

 彼女たちの目が一斉にわたしへと注がれる。その視線に気後れし、たまらず逃げ出したくなる。でも、彼女たちのつばささんに対する誤解を解かないと。――そう思ったからこそ、わたしはなけなしの勇気を振り絞って言った。

「……違います。わたしが黙っていたのは、決してこの先輩のことが怖かったとか、そういう理由じゃありません。だから、その……先輩をからかうようなことを言うのはやめてください」

 しばし呆然としていたつばささんだったけど、にんまり笑ったかと思うと、わたしの体をぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう! わたしの味方はあなただけだよ!」

 一方、女子生徒たちには冷たい視線を向け、

「あんたらなんか、もう友達じゃないからね!」

 しっしと手を振って追い払うような仕草までしているつばささんに、女子生徒たちは「あんたそれ、傍から見ると襲っているようにしか見えないよ」と言って笑っていた。

 いきなり抱きしめられたときは思わず「ひゃっ!?」と情けない悲鳴を上げてしまったし、今もちょっと苦しいのだけど、わたし自身は決して嫌ではなかった。むしろ、失礼なことを思っていた自分を許してもらえたようで、嬉しくさえあった。

 さっきまで感じていた三年生の教室や、そこにいる生徒に対する恐怖心は、いつの間にか薄らいでいた。

「ねえあなた、もしかして三年生の誰かに用があって来たんじゃないの? 兄姉とか部活の先輩とかさ」

 やっとわたしを解放してくれたつばささんは、さっきのように身を屈めて尋ねた。

「はい。兄姉や部活の先輩ではありませんけど、だいたいそんなところです」

「そっか」つばささんはうなずいた。「じゃあ、わたしが呼んできてあげようか?」

「え? でも……」

「遠慮することないって。どうせ暇なんだしさ」

 そう言って、つばささんは優しく微笑んだ。

「暇ってあんた、もうすぐ補習始まるよ。ただでさえあんたは普段は部活で参加していないんだから、試験前くらいは真面目に勉強しておかないと」「いいのいいの。わたし、高校はスポーツ推薦で行くつもりだからさ」「あんたがそう望むのは勝手だけどさ、推薦って大会でそうとういい成績残さないだめなんじゃないの?」「それなら大丈夫。今年は有望な新人が入ったからさ。全国制覇だって夢じゃないよ。まあ、生意気なのが玉に瑕だけどね」

 そんな会話をしているつばささんたちを横目に、わたしは先の提案にどう答えるべきた考えていた。

 会ったばかりの人にそこまで世話になってよいものだろうかとは思った。だけど、彼女の提案はわたしにとって渡りに船だ。考えみれば、わたしは松永先輩がどこのクラスなのかも知らないし、たとえわかったとしても、この三年生が大勢たむろしている中を通って会いに行くのは気後れしてしまう。だから、呼んできてもらえるというのであれば、それはとてもありがたかった。

 それに、この人なら信用できそうだし。――断る理由はなさそうだ。

「せっかくですから、甘えさせていただきます」

 とわたしが言うと、つばささんは「よし、お姉さんに任せなさい!」と威勢よく自分の胸を叩いた。

「さあ、誰を呼んできてほしいのかな? 告白をしたいと思っている憧れの先輩でも何でも連れてきてあげるよ」

 力ずくでもね――と言わんばかりのつばささんに苦笑いしつつ、わたしは呼んでほしい人の名を告げた。

「松永先輩を呼んできてください」

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