6章-2

 仰向けに寝転がっていた松永先輩はすっと上空に左腕をのばした。最初、腕時計を見ようとしているのかと思ったけど、そうではなかった。

 先輩は大きく指を広げると、真っ青な空に手のひらをかざし、そしてぎゅっと手を握りしめた。再びぱっと広げ、ぎゅっと握る。そんな動作を幾度となく繰り返している。

「先輩……何をしているんです?」

 その奇妙な行動をしばらく眺めていたわたしは、気になって尋ねてみた。

 先輩は上空を見つめ、例の動作を続けながら答える。

「ちょっとね、雲を捕まえようと思ってさ」

「雲を捕まえる……ですか?」

「そうだよ。こんなにも雲が近くに見えるから、こうやって手を伸ばしたら捕まえられるような気がするんだ」

「はあ……」

 てっきりからかわれているのかと思ったけど、先輩の顔は真剣そのものだ。

 わたしは再び空へと視線を向けた。たしかに雲はびっくりするほど低いところを漂っているように見える。なるほど、これなら手で触れられそうな気がした。

 わたしはまっすぐに腕を伸ばし、指を大きく広げた。ふわふわの入道雲が手のひらの中に隠れる。

 今だと思い、ぎゅっと手を握りしめる。

 捕まえた!

 しかし、雲は何ら変わることなくその場に浮かび続けていた。

 当然だ。いくら近くに見えたとしても、実際には雲は学校の屋上なんかより遙かに高いところを漂っているのだから。

 わたしはその雲を捕まえる行動を繰り返した。たとえ無駄とわかっていても、松永先輩と同じことをしているというだけで楽しい気分になれた。

 でも、しばらくするとやめてしまった。単純に疲れてしまったのだ。腕をまっすぐ伸ばしたまま手を広げたり握ったりを繰り返すのは思いのほか重労働だった。

「こんなことを続けていたら腕が太くなっちゃいますね」

 わたしは笑いながら松永先輩を見た。きっと先輩も同じことを考えていて、笑顔でうなずいてくれるに違いないと思いながら。

 しかし、先輩はいまだ執拗に雲を捕まえようとし続けていた。

「どうして届かないんだろう……」先輩はぼそりと呟いた。それはわたしに聞かせるためのものではなく、まったくの独り言だった。「こんなにも近くに見えるのに、どうして捕まえることができないんだろう……。もっと空に近い場所にいかないとだめってことなの?」

 先輩は何度も雲を捕まえようと試みるものの、もちろん成功することはなかった。それでも決して諦めようとはしない。

「先輩……」

 わたしは松永先輩を止めようとした。このままでは先輩が上空の雲のように手の届かないところに行ってしまうんじゃないか――そんな気がしてならなかったから。

 だけど、鬼気迫るという表現がぴったり当てはまりそうな先輩の姿にわたしは怖じ気づいてしまい、結局黙って見ていることしかできなかった。

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