7章-2
瞬間、場の空気が凍り付いた。
箸が転んでもおかしいかのように絶えず笑っていた女子生徒の表情から一斉に笑みが消えた。つばささんも例外ではなく、優しげな顔が陰ってしまった。
その突然の変化に、わたしは戸惑いを隠せなかった。
いったいどうしたっていうのだろう? 何かまずいことでも言っただろうか。でも、わたしが口にしたのは松永先輩の名前だけだ。……それがいけなかったとでもいうの?
「あなたの言っている松永先輩って、もしかして松永京子のこと?」
つばささんは訊いた。それは尋ねるというより確認するという感じだった。
「ええ、そうですけど……」
当惑を隠せずにわたしが答えると、女子生徒たちはそれ以上に当惑した様子で互いの顔を見合わせていた。
「……そうだよね。三年で松永と言えば彼女しかいないから」つばささんはため息混じりに独り言を呟くと、深刻そうな顔でわたしに尋ねる。「ねえ、あなたは松永さんがどういう人間かわかっているの?」
「……不良だとでも言いたいんですか?」
「そうは言わないけど……」つばささんは口ごもる。「でもまあ、世間一般の感覚からすれば、特殊な人間であることは確かかもしれないね」
そして、自分もその世間一般の感覚の側に属する人間なのだ――そうつばささんは言いたいのだろうか。
「あの……松永先輩を呼んできてはもらえないのでしょうか?」
さっきまでの友好的な気分はもはや薄れてしまっていたけど、それでもわたしは催促してみる。
「うーん、そうしてあげたいのはやまやまなんだけどさ……」
つばささんは言葉を濁す。さっきは人を呼んでくることを快く承諾したものの、それはあくまで普通の生徒の場合に限った話であって、松永京子のような不良は例外だとでもいうのだろうか。
「呼んでこようにも、松永さんは停学になったからねぇ」
女子生徒のひとりが口を挟んだ。
停学――学校側が処罰として学生の登校を一定期間停止すること。
小学校時代にはそんな処罰があることすら知らず、中学生になってからも自分には縁遠いものとしか認識していなかった。その罰を先輩が受けたという話にわたしは衝撃を受けた。
「どういうことですか、それ!? 松永先輩が停学だなんて!」
考えるよりも先にわたしはその女子生徒に詰め寄っていた。彼女はわたしの勢いに圧されておたおたするばかりだ。代わって別の女子生徒たちがわたしの質問に答えてくれた。
「わたしたちも先生たちから説明を受けたわけじゃないし、どうせ聞いたところで『他人の心配をするより、まず自分のことをちゃんとしろ』とか説教されるだけだろうから、はっきりしたことはわからないんだけど……学年内でそういう噂が立っているのよ」「松永さんが停学になったってね」「その噂によれば、校長室に呼び出されて『もう学校に来なくてよろしい』って宣告されたんだってさ」「そんなの、ただの噂にすぎないじゃないかって? たしかにそうだね。だけど、彼女にはそういう噂が立っても仕方がない土壌というものがあるわけだし」「あの赤く染めた髪ね」「あんな髪をしていたら停学になっても何の不思議もないでしょ」「少なくとも、松永さんが先週の月曜日以降学校に来ていないのはまぎれもない事実だよ」
先週の月曜日――松永先輩が服装頭髪検査を受けておらず、放課後に屋上で自分の証を持って生きようと決意したわたしにそれで後悔しないかと弱気な言葉を投げかけ、気に掛けてくれる人がいるのは幸せなことだと語り、そして必死になって雲を捕まえようとしていた――わたしたちが最後に会った日。
女子生徒たちの話が本当だとすれば、松永先輩はあの日以来学校には来ていないことになる。それならいくら屋上に行ってもいなかったのも納得できる。できるけども……。
言葉を失っているわたしをほっぽり出して、女子生徒たちは松永先輩の話題で盛り上がっていた。
「でもさ、中学校に停学なんてあるの? 義務教育なのにさ」「知らないよ、そんなこと。わたしは停学になったことなんてないし、なる予定もないもの」「でも、賢明な処置ではあるよね。ああいう輩を更生させるのは一筋縄ではいかないだろうからさ。それなら最初から排除してしまったほうが簡単だし、他の生徒に悪影響を与えるのを未然に防ぐこともできるしね」「いわゆる〝腐ったミカンの方程式〟ってやつ?」「うわっ、古いなそれ」「でも仕方ないよね。その責任は松永さん自身にあるんだからさ」「そうだよね。あんな髪をしている松永京子が悪いのよ」「しかし、松永のやつもいったい何を考えてるんだか。あんな目立つ真似したら、遅かれ早かれこうなることはわかりきっていただろうにさ」「しょせん不良なんてそんなもんでしょ。何にでも反抗してみせることで、自分がいかにただ者ではないかを周りに誇示してみせたいのよ」「ああいう連中って、わたしたちみたいに真面目にやっている人を『意気地がない』とか『飼い慣らされている』とか言ってせせら笑っているのよね。実際は、自分たちのほうが現実から逃げているだけのくせしてさ」
日頃溜まっていた鬱憤を晴らそうとするかのように女子生徒たちの口は止まらない。
「ここだけの話、わたし、あの人のことは髪を染める以前からあまり好きではなかったのよね。親切で礼儀正しいけど、どこか白々しい感じがしてさ」「あんたも? 実はわたしも同じこと思ってたんだ。なんていうか、優等生っぷりが鼻につくっていうかさ」「そんな人間が、ある日突然髪を赤くして学校にやって来たものだから、周囲の人間は度肝を抜かされたんだけどね」「そうそう。優等生がおかしくなったって言うんで騒ぎになったんだよね。先生たちなんかあわてて職員会議なんか開いちゃってさ」「実際、あれには誰でもびびるって。みごとなまでに真っ赤なんだもん。髪を染めるにしたって、もう少しましな色があるでしょうに」「教師なんて適当にあしらっておけばいいのに、わざわざ挑発するような真似しちゃってさ。はっきり言って馬鹿だとしか言いようがないね」「だよねー」
女子生徒たちはどっと笑う。さっきは朗らかに思えた彼女たちの笑い声が、今ではとても醜悪なものに感じられた。
わたしの中で沸々と怒りが煮えたぎっていた。彼女たちを黙らせたかった。飛びかかってそのやかましい口を塞いでやりたかった。相手が複数だろうが、上級生だろうが関係ない。わたしひとりでも松永先輩の名誉のために戦いたかった。
だけど現実のわたしは、ただ黙って女子生徒たちの話を聞いていることしかできなかった。胸に渦巻いている怒りを爆発させるどころか、不快さを顔に出すことすらできずにいる。
何しているの? いつまでも勝手なことを言わせておいていいの? 「松永先輩を侮辱するな!」と一喝してやらなくていいの?
そう思いながらも、体は竦んでしまい、どうしても動いてくれない。そんな自分が不甲斐なくて涙が出そうになる。
助けて、松永先輩……。
「あんたたち、いい加減にしなよ!」
つばささんの叱責に、女子生徒たちの口がぴたりと止まった。
「本人がいないところでそうやって陰口叩いて楽しい? だとしたら、相当根性が腐ってるんじゃないの。あんたたち、さっきわたしのことを世話焼きおばさんだなんて言ってたけど、わたしから見れば、あんたたちのほうがよっぽどおばさんよ。人のゴシップや噂話を何よりの生き甲斐にしているようなね。恥ずかしいったらありゃしない。松永さんのことはあくまで噂で本当のところはわかっていないんだから、憶測だけで勝手なこと言うもんじゃないよ」
さっき、自分がからかわれた時とは違い、つばささんは本気で怒っていた。女子生徒たちは気まずそうにうなだれる。
わたしの気持ちを代弁するかのように女子生徒たちを嗜めてくれたつばさんの姿に、ここにもわたしたちの味方をしてくれる人がいるのだと思い、嬉しくなってしまった。
……だけど、そんな浮かれ気分は次の女子生徒の一言によってあっさり吹き飛んでしまった。
「何よ、ひとりでいい人ぶっちゃってさ。あんたは誰よりも松永京子のことを嫌っていたじゃないの」
その言葉には明らかに毒の棘があった。
「ちょっと、何を言っているのよ。わたしは別に松永さんのことを嫌ってなんかいないわよ」「そうだっけ? あなた、いつだったか松永と激しくやりあっていたじゃないの」「たしかにそんなこともあったけど……。でもあれは、別に松永さんのことが嫌いだからって話ではなかったでしょ」「あ、そう。でも、あんたは松永京子のことを嫌ってはいなくても恐れてはいたんじゃないの?」「……どういう意味よ、それ」「松永って今でこそあんなだけど、以前は誰からも好かれるようなやつだったからね。あんたはその人望を恐れていたのよ。自分がこつこつとお節介焼きまでして築いたものをみんな持っていかれるんじゃないかってね。だから、松永がおかしくなって髪を真っ赤に染めたことでみんなの気持ちが離れていったことにあんたは歓喜したんじゃない?」「……あんた、いい加減にしないとぶつよ」「おお、怖い怖い。都合が悪くなると力に訴えるのが図体でかいやつの困ったところよね」「言っておくけど、わたしは部活の後輩にだって手を出したことはないからね」「たとえ力に訴えなくても、あんたのでかい図体そのものが十分威圧的なのよ」「なによ、その理不尽な言いがかりは」「この際だから言わせてもらうけど、わたしにはあんたのそのお節介な性格が鼻について仕方がなかったのよね。本人は自己満足できてさぞかし気持ちがよろしいでしょうけど、こっちからすれば鬱陶しいことこの上ないのよ!」「こいつ!」
言い合っていた女子生徒に飛びかかろうとするつばささんを他の女子生徒たちが必死になって抑えようとしている。周囲にいた生徒も止めに入ったり、逆にはやし立てたりしていた。
そんな修羅場をわたしはただ呆然と眺めていた。
どうして、こんなことになってしまったの? さっきまでは、下級生のわたしに気を掛けてくれるような和やかな雰囲気だったのに……。わたしが悪いの? わたしが松永先輩の名前を出したばっかりに、こんな殺伐とした事態にしてしまったとでもいうの?
……嫌だ。こんなの、嫌だ。
「やめてください!」
たまらずわたしは叫んだ。その声は半分裏返っていたし、迫力という点ではつばささんの足下にも及ばなかったけど、それでも彼女たちは我に返ったように争いをやめた。
気まずい空気が流れる中、つばささんがすまなそうにわたしに言った。
「ごめんね。突然、言い争いなんか始めちゃったりして。たしかに嫌だよね、こんなの」
つばささんの後ろで、さっきまで言い争いをしていた女子生徒が「またそうやっていい人ぶっちゃってさ」とぼやいていたけど、他の女子生徒に引きずられるようにわたしたちの前から去っていった。
「あの……いいんですか?」
彼女たちの後ろ姿を見送りながらわたしはつばささんに尋ねた。このまま友情にひびが入ったままにしておくのはよろしくないように思うのだけど。
「いいのいいの。あいつとはいつもこんな調子だからさ。言いたいこと言い合う分、後腐れなくてすっきりしたものよ」
そう言ってつばささんは笑ったものの、その笑顔はどこか無理しているように感じられた。
「それより、本当にごめんね。不愉快な思いをさせちゃってさ」
「そんな……むしろわたしの方が謝らないと。こんなことになったのはわたしのせいなんでしょうし」
「そんなことない。あなたは全然悪くないよ。もちろん松永さんもね」
つばささんが本心からそう言ってくれているのだろうけど、先ほどの女子生徒の発言を聞いた後では彼女の言葉を素直に受け取ることはできそうになかった。
「さっきの松永さんの停学の話だけど、あれはあくまで噂にすぎないんだから、真に受けたりしないでね」
「でも、松永先輩が登校していないのは事実なんですよね?」
「それはそうなんだけどね……。でも安心して。どうせ風邪か何かで休んでいるだけだろうしさ」
つばささんはいい人には違いないのだろうけど、嘘は致命的に下手なようだ。表情から、自分でもそんなことを信じていないのはバレバレだった。
「そんなわけで、残念ながら松永さんを呼んできてあげることはできないけど――」そこまで言ったところで、つばささんはいいことを思いついたというようにぽんっと手を叩いた。「そうだ! これから一緒に松永さんの家に行ってみようか?」
「え?」
その思いがけない提案にわたしは当惑した。
「それならあなたも松永さんに会えるし、彼女の口から噂の真相も聞くことができて一石二鳥だよ」
「でも……」
「わたしに迷惑を掛けると思っているのなら、そんな心配は無用だよ。正直、真面目に補習に出るのはかったるいと思っていたところだし、それになにより、わたしも松永さんのことが気になるからさ」
「…………」
「どうする? 行ってみる?」
つばささんは身をかがめ、わたしの顔を覗き込むようにして返答を待つ。その体勢は背の高い彼女には少し辛そうで、解放してあげるためにも早く返答しなくてはいけないと思うのだけど、どうしても口から言葉が出てこなかった。本当なら「行きたい!」と即答すべきなのに、なぜか心の一部がそれを拒否しているのだ。
そのとき、学校のチャイムが鳴った。廊下に出ていた生徒がぞろぞろと教室に入っていく。どうやら補習が始まるようだ。
それがきっかけになったのか、束縛が解けたかのようにわたしの体が自由になった。解放された体でわたしが真っ先にとった行動はつばささんの提案に返答することではなく――
「さ、さようなら!」
つばささんがチャイムを気を取られている隙に、わたしは背を向け、生徒玄関に向かって走り出した。
「ちょっ、ちょっと待って!?」
後方からつばささんの呼び止める声がしたけど、わたしは聞こえないふりを決め込んだ。
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