5章-4

 体育館と校舎を繋いでいる渡り廊下は服装頭髪検査を終えた生徒でごった返していた。中にはその場で立ち止まってお喋りをしている女子生徒もおり、通行に邪魔なことこの上なかった。

 ……話ならわざわざこんな人通りの激しいところでせずとも、教室に帰ってから思う存分すればいいのに。

 そんなことを思いながら彼女たちの横を通りすぎようとしたところ、

「河村さん、待って!」

 後ろからわたしを呼び止める声がした。その声の大きさにはお喋りをしていた女子生徒もびっくりし、あれほど滑らかだった口が一瞬止まってしまったほどだ。

 わたしが振り返ると、こちらにむかって走ってくる女子生徒の姿が見えた。背が高く、ショートヘアーがよく似合うクラスメイト――沢田みさきさんだ。

 沢田さんはわたしの前で立ち止まる。あれほどの勢いで走ってきたというのに息はまったく乱れていない。

 沢田さんがいったいわたしに何の用なんだろう?

 怪訝に思っていると、沢田さんはいつものハスキーボイスでわたしに訊いた。

「河村さん。あなた、さっきの検査で髪引っかかったでしょ?」

「うん、そうだけど……」

 服装頭髪検査は名簿順に行われるので、沢田さんはわたしから四人ほど後のはずだ。おそらく彼女は、わたしが坂本先生に注意されているのを列の後ろから見ていて、自分の検査が終わるやすぐ追いかけてきたのだろう。

「いったいどうしたの? これまで検査で引っかかることなんてなかったのにさ。検査するのが坂本だと知らないで油断していたの? だめだよ、しっかりしなきゃ」

「…………」

 わたしは呆れてしまった。わざわざ走ってきて呼び止めたりするものだから、いったい何事かと思ったら……。

 何で沢田さんにそんなことを言われなくちゃならないんだろう。自分はクラスの副委員長だから、校則違反をしているクラスメイトに注意をする義務があるとでも思っているのだろうか。でも、何でわたしだけ? 違反を指摘された人は他にいくらでもいたのに。

 思えば、このところ沢田さんはうるさいくらいわたしに突っかかってくる気がする。以前、放課後に何でも相談してほしいと言われたこともそうだけど、他にもわたしを同じ遠足の班に入れようとしたり、しきりにお昼を一緒に食べようと誘ってきたりなど、事ある度に絡んできた。正直、わたしはそれを鬱陶しく感じていた。

 いったい何様のつもりなのだろう。友達でもないくせに……。

「ねえ、聞いてるの?」

 黙っているわたしの肩に沢田さんが手を掛けた。そのなれなれしい態度が癇に障り、

「やめてよ!」

 わたしは反射的にその手を払いのけてしまった。

「河村さん……」

 わたしに突っぱねられたことが意外だったのか、沢田さんは呆然とした顔をしている。

 わたしも自らの行動に少し驚いてしまったけど、すぐにこれでいいんだと思い直した。ちょうどいい。さっき坂本先生に言えなかったことを、代わりに沢田さん相手に宣言してしまえ。

「わたし、これからは髪を伸ばすことにしたの。小学校の頃のように腰あたりまで伸ばすの。そして、これまでできなかったいろんな髪型をするの。そう決めたの」

「そう決めたって……。河村さん、わかってる? それって校則違反だよ」

「わかってる」

「なら、どうして……」

「証だから」

「証?」

「長い髪はわたしがわたしであるための証だから」

「は? 何よそれ」

「わたしは誰に何と言われようとも、決してこの髪を切るつもりはないから。だから沢田さんも邪魔しないで。そんなことしたって無駄だから」

「…………」

「そういうことだから。じゃあ」

 そしてわたしは、呆気にとられている沢田さんに背をむけた。

 やった! 言ってやった!

 わたしは心の中で小躍りした。沢田さんに宣言したことで、わたしは新たな生き方の第一歩を踏み出せたような気がした。

 高揚した気分のまま教室に凱旋しようとしたところ、背中に冷水のような声を浴びせられた。

「――松永先輩のせいなの?」

 わたしは足を止めて振り返った。沢田さんは腕を組み、むっとした顔でわたしを睨んでいる。

「……それ、どういう意味?」わたしは訊き返す。

「河村さんが髪を伸ばすだなんてこと言い出したのは、松永先輩の影響なのかって聞いているの」

「だから、何でここで松永先輩の名前が出てくるのよ」

 わたしは気が気ではなかった。どうして沢田さんはわたしと松永先輩の関係を知っているのだろう。もしかすると、わたしたちが屋上で過ごしているところを見られてしまったのだろうか。

 だとしたら大変だ。先生に告げ口をされてしまう。校則違反をしたことをこっぴどく怒られてしまう。そして、空に近い場所を奪われてしまう!

 わたしの頭の中を最悪の展開が駆け巡る。自分の証を持って生きていこうとした矢先にこんな事態になるだなんて……。

 しかし、それは杞憂にすぎなかった。

「この間、河村さんが松永先輩と一緒にいるところを見たときから嫌な予感はしていたんだよね。何か悪い誘いでも受けているんじゃないかってさ。でも、聞いても河村さんは何も言わないし、わたしの思い過ごしだろうと安心していたら今回のことでしょ。やっぱり、松永先輩と何かあったんじゃない」

 そうだった。以前、わたしと松永先輩が一緒に廊下にいたところに沢田さんが現れたんだった。あの日の松永先輩との出会いは一生忘れ得ぬ思い出として鮮明に記憶される一方で、沢田さんの存在はすっかり忘れ去られていた。

 沢田さんにわたしと松永先輩の関係を問い質されたところで、別に動揺する必要なんてなかったんだ。その事実にほっと胸をなで下ろすと、今度は松永先輩のことを悪く言う沢田さんにわたしは反感を覚えずにはいられなかった。

「だったらなんだっていうの。沢田さんには関係ないでしょ」

 そう言うわたしの声は我ながら刺々しかったと思う。

 わたしの反応に沢田さんは一瞬怯んだ様子を見せたものの、すぐさま飛びかからんばかりの勢いでわたしに詰め寄った。

「河村さん、わかってるの? 相手は不良なんだよ。そんな人と付き合ったりしたらどうなるかなんてすぐに想像つきそうなもんでしょうが。これだから、何かあったらわたしに相談してって言ったんじゃない!」

 沢田さんはわたしの肩を掴み、身体をぐらぐらと揺さぶった。食い込む指の痛みと、唾がかかりそうな至近距離で怒鳴られる不快さでわたしは顔を歪めてしまう。

「放してよ!」わたしは身をよじるようにして強引にその手を振りほどいた。さっきとは違い、その行動に何のためらいもなかった。「沢田さんには関係ないって言ってるでしょ。余計なお世話よ」

「余計なお世話って……。そんな言い方ってないでしょ! 人が心配しているっていうのに」

「それが余計なお世話だっていうの。だいたい、わたしには沢田さんに心配される謂われなんてない」

「心配するに決まってるでしょうが。松永先輩に何か悪い影響を受けているんじゃないかってね」

「何よ、悪い影響って」

「だって、そうでしょ。河村さんがやろうとしていることは校則違反なんだよ。これが悪い影響を受けていると言わずして何だっていうのさ」

「……仕方がないよ」

「は? 何を言ってるのよ」

「それは仕方がないって言ってるの。だって自分の証を守るためなんだもの。たとえそれが校則違反であったとしても、誰かに文句を言われようとも、わたしは改める気なんてないからね」

「ちょっと、なに開き直っているのよ。そんなこと許されるとでも思っているわけ?」

「思っているよ。だって校則違反なんて多かれ少なかれみんなやっていることじゃない。それでも許されているじゃない」

「確かにそうだけどさ……。でも、それにしたって程度ってものがあるでしょ」

「程度ね……。沢田さんの言う程度っていうのは、服装頭髪検査の時にごまかしが効く程度ってこと? 先生方に目を付けられない程度ってこと?」

「それは……」

「だいたい、みんなが校則違反をする理由って、周りがやっているから自分もそれに合わせているってだけじゃない。みんな『赤信号、みんなで渡れば怖くない』という感覚なのよ。そういうのって卑怯だと思うな」

「…………」

「でも、わたしと松永先輩は違う。わたしたちが違反をするのは、もっと純粋な想いによるものなんだから。その想いを止めることなんて誰にもできやしないんだよ」

「純粋だか何だか知らないけどね……。それって松永先輩の指示なわけ?」

「……どういう意味よ、それ」

「誰かにいちゃもん付けられたら、そうやってはぐらかせって松永先輩に言われたのかって聞いてるの」

「ちょっと、ふざけたことを言わないで!」

「ふざけてるのはそっちの方でしょうが! さっきから証だとかなんだとか、わけのわからないことばかり言ってさ。松永先輩に洗脳でもされたんじゃない?」

「やめてよ! どうして、さっきからそうやって松永先輩を貶めるようなことばかり言うの。何様のつもり? 先輩がどういう人かなんて全然知りもしないくせに!」

「知ってるよ! 不良でしょ! そんなの一目瞭然じゃない!」

「違う! 全然わかってない! そうやって人を外見だけで判断して勝手にレッテルを貼らないでよね!」

「じゃあ、何? 河村さんは松永先輩のことを理解しているとても言うわけ?」

「ええ、理解しているよ! だって、わたしたちは頻繁に屋――」

 頻繁に屋上で会っているんだから!――そう言いかけて、わたしはあわてて言葉を飲み込んだ。屋上のことはわたしと松永先輩だけの秘密なのだ。憤りのあまりそれを口に出してしまうところだった。危なかった……。

 冷静さを取り戻したわたしは、自分に向けられている複数の好奇の視線に気がついた。わたしたちの言い争いを聞きつけ、野次馬が集まってきたのだ。口ゲンカがやがて頬の張り合いにまで発展するのを今か今かと待ちかまえているようだ。さっきまでお喋りをしていた女子生徒までも、「ケンカならこんなところでしないで、教室に帰ってからやってよね」と言わんばかりにわたしたちを睨みつけている。

「何よ頻繁にって……えっ!?」

 沢田さんも自分に向けられている視線に気付いたようだ。彼女もそのまま黙り込んでしまう。

「なんだ、もう終わりかよ?」「つまんねえなぁ。キャットファイトが見られると思って楽しみにしてたのによ」「帰ろ、帰ろ」「やれやれ、これでやっと落ち着いて自分たちの会話に専念できるわ」

 わたしたちの言い争いが沈静化したのを見て、たむろしていた生徒たちは解散し、教室に戻ろうとしたり、再びお喋りを始めたりしていた。渡り廊下は何事もなかったかのように生徒たちで賑わう場へと戻っていた。

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