5章-5
わたしたちと沢田さんの間には相変わらず刺々しい空気が流れていた。とはいえ、言い争いを再開したりはしなかった。そんなことをしたらまた野次馬が集まってきてしまうし、なにより一度クールダウンしてしまったせいか、再びやり合おうという気力は沸いてこなかった。
「……ごめん。感情的になっていたみたい。謝るよ」
しばらくしてから沢田さんが言った。
「ううん、わたしも似たようなものだったから」
わたしも謝罪する。先に謝られては文句は言えないし、自分でも必要以上に感情的になってしまったという自覚はあった。
でも、言うべきことはきちんと言っておかなければと思った。
「沢田さん。さっきわたし、髪を伸ばすことがわたしがわたしである証だって言ったよね」
「うん、言ってたね」
「何を馬鹿なことをって思ったでしょ?」
「いや、別に……」最初、沢田さんは言葉を濁したものの、やがて肩をすくめ、「たしかに、何を考えているのやらとは思ったけどね」
「だろうね。でもね、決して冗談で言ったわけじゃないんだよ。わたしはいたって真剣なの」
「河村さん……」
「これまでわたしには誇れるものなんてないと思ってた。勉強でもスポーツでも、外見でも性格でも、誇れるところがひとつもない、いてもいなくてもいいような人間なんだと思ってた。わたしはそんな自分が嫌いだった」
「そんなこと――」
「いいの、本当のことだから」無理にフォローしようとする沢田さんを遮ってわたしは続ける。「でも、思い出したんだ、自分が誇れるものを。それは長くて黒い髪。これこそがわたしがわたしである証なんだって気づいたの。これが本当の河村由佳なんだってわかったの」
「…………」
「わたしは一度、この証を手放してしまった。深い考えもなしにね。そんなわたしは死んでいるも同然だった。だから、もう二度とそんな失敗はしたくない。今度こそは絶対にこの証を守るの。命を懸けてでもね」
「……理解できない」
沢田さんは首を振る。
「いいよ、最初から理解してもらおうだなんて思ってはいないから。これはわたし自身の問題であって、沢田さんには何の関係もないことなんだしね。ただ、わたしはこういうことを考えているんだって言いたかっただけ」
「…………」
「じゃあ、わたしは行くね」
言うべきことを言ったわたしは、この場を去ろうとした。
「待って!」
しかし、沢田さんがまたわたしを呼び止めた。わたしはうんざりとため息をついてから振り返る。
「……まだ何か文句があるの?」
わたしが訊くと、沢田さんは慎重に言葉を選ぶように言った。
「河村さんが言う自分であるための証だとか、どうしてそれが長い髪になるのかなんて、やっぱりわたしには理解できない。だけど、河村さんが自分らしさを追い求めようとするのは別に悪いことではないと思うよ。なんせ今は個性を重んじるご時世なんだしね」
「うん」
「でもね、それってきっとしんどい生き方なんだと思うよ。校則違反だとか抜きにしても、河村さんがやろうとしていることはまず他人の共感を得ることはない。『個性を重んじるご時世』なんて言ったところで、そんなのはしょせん建前であって、現実には人と違うことや目立つことをすると排斥されるような社会をわたしたちは生きているんだしね」
「…………」
「人と違うことをするつもりなら非難されたり孤立する事を覚悟しなくてはいけないんだと思う。それに耐えられるだけの強さがなくてはいけないんだと思う。松永先輩にはそういう強さがあるのかもしれない。でも河村さんはどうなの? あなたにその強さはあるの?」
沢田さんの言うようなことはわたしだって考えなかったわけじゃない。いくらやる気のない先生たちだってわたしの違反が目に余るほどになったら見逃してはくれなくなるだろう。今日はそうでもなかったけれど、坂本先生は松永先輩の時のように掴みかからんばかりに怒るに違いない。これまでわたしのことなど眼中になかったクラスメイトも一斉に白い目を向けるようになるはずだ。親も悲しむに違いない。仕事第一で、休みの日もほどんど顔を合わせることのないお父さんはどうか知らないけれど、お母さんはきっと泣いてしまうことだろうな。
わたしがこれからしようとしている生き方が数々の苦しみを伴うものになるだろうことは容易に想像がついた。でも、それを承知の上でわたしは答えた。
「うん、あるよ」
どんな困難が待ち構えていようとも、わたしは自分の証を持って生きていくと固く心に決めたのだ。その覚悟に迷いなんてない。
沢田さんはまるでこちらの真意を探るかのようにわたしの顔を見つめる。わたしも沢田さんを見つめ返す。先に目を逸らした方が負けになるような気がして、互いにじっと睨み合う。その間、何人もの生徒がわたしたちの横を通り過ぎていった。
先に根負けしたのは沢田さんだった。小さくため息をつくと、自分の短い髪を乱暴にかき上げる。
「……わかったよ。そこまで覚悟を決めているのなら、もはやわたしに言える事なんて何もない。河村さんの人生なんだから勝手にすればいいじゃない。別に誰かに迷惑かけるってものでもないんだしさ」
「沢田さん……」
「断っておくけど、わたしは別に河村さんの言っていることを理解したわけではないし、それを応援する気もさらさらないからね。だけど、河村さんがそういう気持ちでいるんだということは認めてあげる」
わたしが自分の証を守るために別に沢田さんの承認をもらう必要なんてないのだけれど、そう言ってもらえたことは素直に嬉しかった。
「ありがとう」
わたしの口から自然と感謝の言葉がこぼれた。
「ちょっ、ちょっと、お礼なんて言わないでよ。わたしは本当はこんなことには反対なんだからね!」
沢田さんはふてくされたように口を尖らせる。そんな沢田さんの様子がおかしくて、わたしは思わずくすっと笑ってしまう。沢田さんが恨めしそうにわたしを睨んでいたけれど、その顔もなんだかかわいらしかった。
「ねえ沢田さん」
「……何よ?」
「前から不思議に思っていたんだけど、沢田さんはどうしてわたしにかまおうとするの?」
これまではただただ鬱陶しいとしか思っていなかったけれど、沢田さんに対して抱いていた敵愾心がほんの少しだけ薄らいだこともあり、その理由を尋ねてみたくなった。
「どうしてって、それは――」
照れくさそうに頬を掻きながら沢田さんが何か言おうとしたところ、
「みっさきーっ!」
彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。わたしたちが同時に声がした方を向くと、体育館からこちらに走ってくる女子生徒の姿が見えた。わたしよりも小柄で、大きな瞳が印象的な、同姓の目から見てもかわいらしい女子生徒――クラスメイトの矢島絵里花さんだ。
矢島さんは沢田さんの前で立ち止まる。沢田さんの体にもたれるようにして、ぜいぜいいっている息を整える。やがて落ち着くと、キッと相手を睨みつけた。その鋭い視線に、沢田さんはたまらずたじろいでしまう。
「もーう、どうして先行っちゃうのよ。わたしが終わるまで待っててって言ったじゃない」「ごめん、ちょっと用があってさ……」「何よそれ! どうせみさきはわたしのことを友達だなんて思っていないんでしょ!」「そんなわけないじゃないの。エリカ、ちょっと落ち着いてよ」「……クリームみつ豆」「は?」「ショッピングセンターの甘味処のクリームみつ豆で手を打ってあげる」「はいはい、わかりましたよ。奢ればいいんでしょ、奢れば」「えへへ、なら許す」
二人が(少なくとも矢島さんは)楽しげに話しているのをわたしは横でぼんやりと眺めていた。二人ともわたしの存在など眼中になさそうだ。
教室に戻ろうと思った。ここにはわたしの居場所はなさそうだから。
わたしは何も告げずに沢田さんたちから背を向け、その場から立ち去った。
「ちょっと、河村さん!?」
後方から沢田さんの呼び止める声がしたけれど、今度は完全に無視を決め込んだ。
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