第17話

 それからアベルはエスメを王妃に迎え、悪魔と魔物はまとめて夜魔族(よるまぞく)や夜の民と呼ばれて、私たち人間の国々と程よい距離を保っている。犯罪や戦いが起こるとどこからともなく夜王がやってくるそうで、今日も人間の親は子どもに「悪いことをすると夜王が来る」と話して聞かせている。

 剣の王アーサー様とアシュレイ様は根強く熱愛が噂されるけれど、十年経ってもまったく変わった様子がない。師匠のセス曰く「あの二人は親友で戦友だから」ということだ。時々酔っ払った陛下が師匠のところに押しかけてきて何事か慰められているのを私は知っているけれど、気付かないふりをしている。

 聖座の敬称そのものが指す人となったアシュレイ様は、聖職者の権力を少しずつ削ぎ、二度と人間が夜魔族と戦ったり魔王が生まれないように努めている。子どもたちに力を持つ夜魔族の頼もしさと怖さを教えるための活動には、師匠や兄弟子たち、先輩方が禁書から拾い上げてまとめた物語が役立っているそうだ。

 幼い頃、確かアシュレイ様が勇者と魔王のお話をしてあげると言ったときに何か思わせぶりなことを言ったように記憶している。

 それは当たり前のように語られていた魔王と勇者の物語や、人を唆し傷付ける敵としての悪魔のことがすべて作り話であったことだった。敵が実は敵じゃなかったんだなんて、悪魔によって多くを奪われ、英雄の存在を縁にしていた人々にとって信じがたい真実だ。けれど夜王や、彼に従って人と共存する悪魔や魔物改め夜魔族によって、ゆっくりと受け入れられてきたように感じる。夜魔族は実は御使いと呼ばれる力を持った存在で神聖なものだったらしいと知っている人は知っている。

 大人になったいま、サリーやジェイン、ハンナ、テレサや他の子たち、それに英雄に憧れた少年だった子たちは、それをどう思い、受け止めたのだろうと想像するときがある。多分子どもの頃の振る舞いはすっかり忘れて、都合のいい記憶や言い訳を使って普通に生きているのだろうとも思う。私が同じ立場だったきっとそうしただろうから。

 養護院でともに暮らしたアリサを含めた年少の子たちとは、長くやりとりが続かなかった。けれどきっと元気だと信じることにしている。そう思う方がこの世界は善いものだとなんとか思っていられるから。

 本当にこの世界は、私でもうんざりしてしまうほど困ったものだった。王城図書室に現れた新参の私を、年上の、それも異性の見習いたちは養護院の少女たちのようにいじめ、嫌がらせをしてきた。直接的に暴力に訴えられそうになったこともあった。被害を報告し、改善のために指導を求める私を、師匠より年上の高官が「君にも悪いところがあったのだろう」と言って何もしてくれなかったことや、見習いの女性用の制服が作られていないために普段着で勤務せざるを得なかったとき、親切にして気を惹こうとしながら私が歯牙にもかけないと知るや徒党を組んで不器量扱いする同僚たちの嘲笑など、この世界のどこにでも、私でない誰かにも起こりうるものなのだと思うと救い難いような気さえした。

 やがて独り立ちし、私に続く少女たちが後輩として少しずつ入職するようになっても、彼女たちの悩みは当時の私とそう変わらない。私はできるだけ彼女たちの行動に目を配り、問題が起これば駆けつけ、こちらに非があるような物言いを言いがかりと反論し、ときには泣くしかない後輩たちの話を聞いて寄り添うようにした。

 変わらず感情の起伏があまりなく、淡々と言い返し、心を折らない私を苦手とする人たちの忌避や嫌悪の礫は、いつになっても止む気配がない。

 そんなとき、私はエスメのことを思い出す。いつも強くあった彼女が決して傷付いていなかったわけではなかったのだということを悔いる。大人と言って差し支えのない年齢になった私にも鬱陶しく感じられる悪意を、十六歳、それよりも幼かった彼女は耐え抜いた。そして自らの願いを貫き、ついにはアベルの隣に並び立ったことに、私はいつもちっぽけな勇気を奮い立たせる。勝手に偶像化しないでくれる? 理想化とか美化とか気持ち悪い、と嫌そうに顔をしかめるエスメを想像すると笑えてしまうのだ。

 ある日、誰かが屋敷を訪ねてきた。

 私が住んでいるのは師匠の屋敷だ。変わらず集中すると周りが疎かになる師の面倒を見るため、部屋数が多いことを理由に見習い時代からずっと間借りしている。私は院で家事を学んでいたし、独り立ちした兄弟子がよく様子を見に来てくれるのでさほど不便はない。むしろ私のことを知っている訪問者が何くれとなく食べ物を持ってくるので、あの頃よりふっくらしてしまった。

 ごんごんと叩き金を鳴らされ、返事をしながら師の所在を思う。深夜まで書き物をしていたようだったから、いまは寝室でぐっすり眠っているはずだ。何かあったときに気付いてもらえない予感がするが、なおも激しく叩かれる扉を開けないわけにはいかない。同じような状況で国王陛下の急使だったこともあるのだから。

 扉を開くと、爽やかな風と光が吹き込んでくる。

 気配を感じた私が視線を下げると、六つか七つくらいの可愛らしい兄妹が立っていた。

「あなたがお母様のお友達?」

 少女の方が言う。黒髪はつやつやとして、水を紡いだようだ。ぱっちりと大きな瞳を黒いまつ毛が縁取り、薔薇色の頬はふっくらとして触り心地が良さそうだった。けれど小さな口から飛び出した呪文のような言葉を、私は受け取り損ねてしまった。

「こぉら。ちゃんと行儀よくしなさいって言われたじゃないか。挨拶、覚えてきたよね?」

 隣にいた少女そっくりの少年に小突かれ、彼女はむうっと不機嫌な顔をした。それを見て、あ、と思った。

 もしかして。この子たちは、まさか。

「ご機嫌よう。私は夜魔王国のクラウと申します」

「ご機嫌よう、私は夜魔王国のソラスです。エスメお母様のお友達のアルナさんに会いにきました。……あなたが、そう?」

 せっかくの挨拶を最後に台無しにする幼い口調に、私は笑みくずれた。いまにも泣いてしまいそうだったけれど、精一杯の笑顔で頷いた。

「はい。私がアルナです。お会いできて光栄です、夜魔王国のクラウ殿下、ソラス殿下」

 エスメの子どもたちは私の返答に挨拶の成功を悟り、ぱっと顔を輝かせた。

「よかった、会えたね。ソラスはずっと会いたがってたものね」

「うん! クラウ、一緒に来てくれてありがとう」

 嬉しそうだがいったい何の御用なのか。私の問いに答えてくれたのは、二人の小さくはない身体を軽々と持ち上げた腕の持ち主だ。

「やれやれ、ご挨拶はよかったんですけどねえ。ちゃんと御用を伝えないと、お母様のお友達が困っちゃうでしょう」

「バフォー!」

 十年経っても容姿の変わらない悪魔は子どもたちに角を掴まれたまま、私に笑みを向けた。

「ご無沙汰しております。ご活躍はかねがね伺っておりますよ、なんでも『少女と悪魔』の底本はあなたの作だとか」

『少女と悪魔』、それはアシュレイ様たちが各地の子どもたちに語り聞かせている人間と悪魔の物語だ。友好的な悪魔と、人を唆す悪魔、悪事を働く悪魔が登場し、人間の少女、変更を加えられて少年になっている場合もあるけれど、過ちや失敗をしながら本当の結びつきを考える内容だ。

 バフォーの言うように草案は私が作った。師匠たちが集めた悪魔や、古書における御使いの逸話をまとめたので、実際は大人が顔をしかめるほど痛ましい展開や無慈悲な結末があった。それが語り継がれていくうちにまろやかになり、語り手によって教訓話らしく変化させられていったのだった。著作物というわけではないので絵が入った書籍が複数出版されているようだが、私の知らない小話が挟まっていて驚くことがある。

「それで本日はこちらに伺ったんです、ねえソラス殿下?」

「そうなの! 私、お願いがあってあなたに会いに来たのよ」

 歪むほどバフォーの顔面を無造作に掴みながら、ソラスが瞳を輝かせて身を乗り出す。

「お話を書いてほしいの。あなたのお話。私たち、それをお母様に贈りたくてここに来たの、お母様が自慢するたった一人のお友達のことを教えてあげるのよ!」

 輝く瞳の少女に何を言えただろう。

 胸をいっぱいにしてただ首を縦に振ることだけが、私にできる唯一のことだった。

 少女の喜びの声が爆発し、それを宥める少年がいて、間から逃れられない悪魔が子どもたちの無茶苦茶を楽しげに笑う。その騒ぎが奥まで届いたらしく、眠たげな顔をした師がひょっこり現れた。

「どうしたんだい? ああ、お客様か。ええと、どちら様でしょう?」

 そのときソラスの遠慮のない大声が響いた。

「あっ、もしかして『へたれ』さんね!? 聞いているわ。お母様のお友達は、歳の差が気になって足踏みばかりしている『へたれ』と暮らしているって!」

 目測を誤った師が、扉に額をぶつける。

 あまりにも激しい音だったから目に星が散ったことだろう。座り込んで悶絶する師を見かねて、猫背の背中をさする。

「だ、大丈夫! 大丈夫…………ってかなんで、知って……っ、痛たた……」

「ご無礼をお許しください。なにぶん殿下は幼くていらっしゃるので何もかも正直に口を出してしまわれるのです。ご両親に似ず素直でお可愛らしいでしょう? ところで無礼ついでにそろそろ中に入れてもらってもよろしいでしょうか。そしてそろそろおやつの時間ですので両殿下にお茶を用意していただけると嬉しいですね」

 夜魔王国の幼い王子と王女を玄関先に立たせたままだという無礼を働いていたので、さすがに私も従うほかなかった。

 師には薬箱の所在を伝え、両殿下とバフォーを屋敷に招き入れる。使用人は通いなので彼らのお茶は私が準備しなければならない。甘いものはあっただろうか、いざとなったら師を走らせて甘味を買ってきてもらおう。

 玄関の扉に手をかける私の胸は弾んでいた。彼女たちに語れるような話を私は持っていないから、幼い頃のエスメとのことを話そうと思う。そして彼女たちから見るエスメとアベルのことを聞かせてもらおう。苦労や困難を経て、幸せになる主人公の逸話を、たくさん。

 それを思うと、救い難いこの世界が、案外悪くないように思えた。

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エスメと大悪魔、そして名もなき私たち 瀬川月菜 @moond

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