第10話

 やがて帰路に着いた私たちは、夕刻にも関わらず人々の姿が減らず、むしろ増えているという状況に違和感を覚えた。

 なんだろう、何かあったのだろうかと思っていると、エスメが小さな声で「ロス」と守り役を呼んだ。

 立ち止まったエスメに倣って私も足を止める。

 しばらくして「広場」とエスメが呟いた。

「広場に御触れ役が来るとみんなが言っているらしい。行くよ」

 国王陛下や聖教猊下のお言葉を伝え、新しい決まりごとや宣言を人々に告げる伝令役だ。

 恐らくロスに頼んで状況を教えてもらった広場へと歩き出すエスメを、私は数秒遅れて追った。暮れていく空も、院に帰るのが遅くなり、修道女に叱られるのも怖くないのは、エスメが、あの、誰にも心を開かないエスメが私に「行くよ」と言ったからだ。

 後ろをついていくうちに、いつになく全身に力を漲らせて、胸を張って隣に並んだ私をエスメが気味悪そうに見ていた。私の気持ちがまったくわからなかったのだと思う。

 街の広場にはたくさんの人が集まっていた。中心に当たる部分にきらびやかな台が設置され、確かにこれから何らかの御触れがあるのだと見て取れる。人々はいったい何事だろうと近くにいる友人知人と言葉を交わし合い、無責任なことを言っていた。

「きっと剣の君が戦いに出られるのよ。まだ危険な悪魔が残っているんでしょう? それを倒すつもりなのよ」

「いや、剣の君と聖女様のご結婚に違いない。あのお二人がそういう仲なのは有名なんだし」

「剣の君が新しい王様になるっていう御触れじゃないか?」

「聖女様が聖教猊下になるって可能性もある」

「まさかまた新しい魔王が攻めてくるんじゃ」

 期待と怯えが半々の混沌とした雰囲気はあまり好ましいものではない。悪い知らせなら騒ぎに巻き込まれてしまいそうだ。エスメも中心に近付かず、辺りを見回して見つけた、隅の方に置かれた荷車の上に登っていく。それに続こうとして影になったところでのんびりとした面持ちで座っていたの持ち主の老爺と目が合ったので、申し訳ないと詫びるつもりで会釈をすると、微笑んでこくりと頷いてくれた。どうやら許してもらえたようだ。

 エスメのように身軽とはいかず、制服の裾が捲れ上がったりや汚れたりするのに注意を払って荷台に上がる。

 思ったよりも高い位置から広場が見渡せて、その人の数に驚いた。

 かなりの人が集まっている状況で御触れが魔王に関するものだったら。魔王でなくてもそれに匹敵する大悪魔や魔物と戦うという宣言が出されたら、エスメが危ないかもしれない。

 悪魔に傷を負わされたと言われながら治癒と時間とともに悪意ある中傷が消えた私はともかく、エスメがいまもアベルと親しくしていることは、養護院で暮らす者以外にも、出入りする商売人や近隣の住民、いや街中の人が知っていると言っても過言ではないと思う。ただ表立っては口にしない。噂の形で広め、伝え、静かにしている。こちらの動向に耳を澄まし、不審な動きがないかときどきこちらを見る。

 それはあたかも檻に閉じ込めた害獣を見張るようで。

 私はそんな人々の視線や耳をそばだてる気配に、いつもなんだか嫌な気持ちになる。同時に仕方がないことだとも。

 たとえば私は、養護院に来たばかりの頃、なかなか大部屋に入ることができなかった。大部屋だけでなく、養護院のどの部屋にも行くことができずよく物置に引きこもっていた。

 院の大勢の見知らぬ子どもたちは、肌が白い子、黒い子、髪色が赤や灰色、目の色が緑、紫と多様だ。背の高い子、太っている子、痩せている子、足を引きずっていたり左手の指が一本なかったり歯がなかったり、自分で自分の手首を傷付けたり髪を抜いたり爪を噛んでぼろぼろにする子。私の知らない、けれど恐ろしい何かと生きるよう宿命づけられた子どもたち。

 見知らぬもの、見慣れぬもの、『私とは違うもの』を人は恐れるものだから。

 いまは私は、幼い妹を助けるために指を失った子が裁縫上手で、自分の髪を抜いてしまう子が制服を改造する技術を持っていてとてもお洒落なことを知っているし、髪や目が色を塗ったみたいに鮮やかな子たちが年相応にいたずら者で意地悪なこともよくわかっている。

 恐ろしいと思ったとき彼ら彼女らは他人だったけれど、長く身近にいるとそうではなくなる。それを他の人々が理解していればいいのだけれど。

 私が考え込んでいる間に、いつの間にか台座に登った御触れ役が高らかに喇叭を吹き鳴らす。

 ざわめきが一度大きくなり、ゆっくり静まり返っていく間をたっぷり取って、御触れ役が書状を読み上げる。

 反響するのでよく聞き取れなかったが、エスメがロスから聞いたことを呟く形で教えてくれた。

「王太子殿下、御即位の典」

「聖教猊下、退位。聖女アシュレイに聖座の称号を授与」

 剣の君が新国王になるのは予想通りだったけれど、聖教猊下が退位するのは予想外だったらしくどよめきが起こる。

 新聖教の選出は一種の祭りだから国内外に活気が生まれる。聖座の称号を得たアシュレイ様は聖教の代理人の役目を追うのだろうから何も心配はいらないだろう。輪の外で見物していた大人たちが訳知り顔でそんなことを話している。

 そして次の瞬間、どおっと、大地が揺れた。いや揺れたように錯覚するほどの動揺と声が押し寄せ、話していた大人たちもそれに耳をそばだてていた私も、いったい何事かと辺りを見回した。そして私は、見たこともないくらい大きく目を開いたエスメが、いまにも叫び出しそうに眉を寄せたのを見た。

「……そういうこと……」

 けれど叫びを堪えてぐっと拳を握った彼女は、飛び立つように荷台から降りると、ざわめく群衆を横目に乱暴な足取りでどこかへ行こうとする。

 私は荷車の持ち主に感謝を込めて頭を下げ、エスメを追った。

 常に静かで、苛立っていたとしても氷のようなエスメだから、荒々しい歩き方は本気で怒っている証拠だ。後ろにいると、乱雑になびく髪や翻る裾はまるで彼女自身が風を起こしているように見えた。感情という風を操っているかのよう。

 人々の集まりからどんどん離れて、日暮れを迎えて光に乏しい裏道を突き進んでいく。

 誰の声も音も絶えた暗闇に包まれた道の真ん中で、彼女の声が高らかに響いた。

「アベル!」

 次の瞬間、目の前に闇の塊が生まれた。

 黒々とした霧のようなそれが霧散したとき、エスメの目の前にはとてつもなく壮麗な漆黒の衣装をまとった美貌の大悪魔が立っていた。

「どうした、エスメ」

 エスメは答えず、アベルを上から下までゆっくりと眺めた。

「今日はずいぶんめかしこんでるね。何してたの」

「退屈な催し物に参加していた。お前に呼ばれて、抜け出す理由ができてよかった」

 そう言ってアベルが黒革の手袋に包まれた手でエスメの頬を包もうとする。

 けれどエスメは一歩下がってそれから逃れた。アベルが一度目を瞬かせて、驚きを表現する。

「エスメ」

「どうして教えてくれなかったの、アベル。王になるって。王として国を治めることになったって」

 邪魔をしないよう、私は慎重に驚愕の感情を殺す。

「王になるなんて、一ヶ月やそこらでできるはずがない。ずっと準備してたんだね、私をここに預けたときから。アーサーが王になるのも、アシュレイが聖座の称号をもらうのも、アベルを王にするため。だからアベルは時間をかけてすべての悪魔と魔物を下したんだ」

 どうして、と尋ねる声は語尾が擦れていた。

「魔王になんてなったら、今度はアベルが」

 そこからは言葉にならなかったけれど、言いたいことは痛いほどにわかった。

 どのように同胞を統率するのだとしても、その力を持つ彼は魔王と呼ばれるものになる。人々の敵意と憎しみを一身に浴び、一つ道を過てば今度は彼が剣の君、あるいはその系譜となる勇者に討たれるだろう。そうなるとわかっていてどうして、とエスメは詰ろうとし、できずに唇を結んでいる。

「魔王ではない。魔王というのは忌み名になったので『夜王(よるおう)』と呼ばれることになった」

 アベルは静かに訂正した。それがエスメの感情を煽るとわかっているのに、それ以外の表現を知らないように思えた。

「そんな細かいこと、どうでもいい」

「どうでもよくないから話している。魔王は人間の敵だった。夜王は違う。夜王は庇護下に入ったすべての者の権利と存在を守る者だと人間の王と聖職者に認められた統治者だ。夜王に敵対する人間が現れれば国同士の戦になる。人間の指導者たちは戦にならないよう民を統括する義務を負った」

「その言い方、嫌いだ。私に嫌なことを言うとき、アベルはたくさん喋る」

 エスメは険しい顔のままそれを聞き、目を逸らして吐き捨てた。拗ねた子どもの態度には悲しみが宿っている。

「それに、どうして教えてくれなかったのかっていう質問に答えてない。さっきの言い分だと、アシュレイたちと示し合わせたってことでしょう。何年もかけて準備して、今日告示された。時間は十分にあったのに誰も私に何も言わなかった。私だって」

 エスメは、一度堪えた。けれど飲み込みきれず、叫んだ。

「私だって何かしたかった! 手伝えることがあったのに」

「それは思い違いだ」

 淡々としているのにその答えは鋭すぎて、聞いている私の息も止まりそうになる。

「お前の手を借りる必要はなかった。だから声をかけなかった」

 事実だけを述べている、それだけに辛い。エスメの気持ちはわかる。そしてアベルの考えも。

 この日を迎えるためにいつから準備を始めたのかはわからないけれど、ここにやってきたときのエスメは痩せすぎて死にかけていた子どもだったし、いまだって十三歳の世間知らずの少女だ。国のことを決めるなんて大仕事の何の役に立つのか。

 けれどたとえそうであっても役に立ちたい、力になりたいと思う。私にわかるのだから聡いエスメは十分承知している。それでもどうにもならない感情が彼女の内側で荒れ狂う。強がりを口にさせる。

「……そう。わかった。私に知らせる意味がないから知らせなかった、そういうことだね」

 顔を上げた彼女は、いつもの皮肉な笑みを刻んでいる。

「今日の『退屈な催し物』に出るのが最初の仕事だったんでしょう、王様。なのに私の呼びかけに答えるなんて王の自覚がなさすぎるよ。改めた方がいい。王が贔屓なんてしたら国が乱れる」

「気を付けよう」とアベルは素直に首肯する。

「だがエスメ、お前はその限りではない。お前だけはいつでも好きなときに私を呼ぶことができる。呼び声が聞こえればいつどこにいようともすぐに駆けつける」

 聞いていた私がわずかに胸を撫で下ろすことができたのは、ほんの一瞬だけだった。

「しかしもう私が必要ないというのなら、いまの言葉は忘れなさい」

 エスメはアベルを凝視し、顔を歪めた。笑おうとして失敗した表情だった。

「アベルが、それを言うの」

 心が引き裂かれる悲鳴のような声に、アベルは眉一つ動かさない。気付かないはずがないのに。聞こえないわけがないのに。遠く離れたところで暮らし、異なる種族でありながら、長く絆を結んできた彼の言葉にエスメがどれだけ傷付いているか。全身がひび割れる悲痛な声が言う。

「それはアベルの方でしょう。アベルにもう私は必要ない。私はもういらないんだ」

「エスメ。聞きなさい」

 アベルは頭を振って背を向けようとするエスメの両腕を捕まえ、腕を突っ張り顔を見られないよう俯く彼女に言い聞かせる。

「気付かないふりをするな。お前はもう十三だ。生きる場所が私のそばだけでないと理解しただろう。いまのお前は、庇護者がおらず食べるものに事欠き他者に弄ばれるだけの幼子ではない。知恵をつけ、自ら糧を得る術を学び、人の暮らしを知ったはずだ。誰に狙われることもなく血の臭いもしない穏やかな日々に安息を得ただろう。どちらが自分にとってより良いか、わかるな」

「わからない」

 ここで初めて、アベルが表情を変えた。

「エスメ」

 どこか悲しげで、辛そうな顔。

 けれどそれをエスメは見ない。

「お前の賢さや手際のよさが人々に認められていることを私は知っている。人の輪にあえて溶け込まずにいながら、独り誇り高くあれるお前を。我が道を行くその孤高さに惹かれる者がいることを」

 エスメ、と呼ぶ声は、顔を上げざるを得ない強さ。

 そして続く言葉は、彼を見ずにはいられないもの。

「貴族の男に求婚されたそうだな」

 白い面がみるみる青ざめていく音が聞こえるようだった。

 よその男性に懸想されているなんてこと、アベルだけには知られたくなかっただろう。彼は保護者で、家族で、それ以上に特別な人だ。責め立てるでもなくただ事実を確認されることがどれだけ恥ずかしいか。エスメはきゅっと唇を噛み、目尻をうっすら赤く染めた。

 羞恥に加えて屈辱的だったのだ。――彼の目に異性として映っていないと思い知らされて。

「軽く調べたが不審なところはなかった。交友関係も綺麗なものだ。将来を考えた場合、特に大きな問題や懸念はないと思う」

 ばしッ! とエスメがアベルの頬を鋭く打った。

 怒りに染まった顔、瞳はいまにも涙をこぼしそうなほどに潤んでいる。この瞬間にも白く燃え上がらないのが不思議だった。強く握り締められて震える手も、振り乱される艶やかな髪も、伸びた背筋、踏み抜くほど踏みしめられた足も、闇に包まれた路地には眩しすぎる。

「アベルの、ばか!」

 短くも激しい罵倒を投げつけたエスメは、脇目も振らずに駆け去った。

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