第9話
仕事を終えて養護院に戻った私は、部屋にエスメがいたのを見てほっとした。
どこへ行ったのかと思っていたけれど無事に戻っていてよかった。いまはほとんどないけれど、少し前までは子どもたちだけで街に出るとさらわれたり集団で痛めつけられたりということがよくあったというから。
アシュレイ様の養護院の子は制服を着ているので一目でわかる。それは手出しをすれば聖女の報復があると示すと同時に、私たちが後ろ盾のない寄る辺ない子どもであると明らかにするものでもあった。
しかし彼女が見慣れない腕輪を持っているのが気になった。
アベルが贈るには少々安っぽい、巷に溢れた普通の腕輪だ。エスメのことだから一人で街を歩き、手に入れたのだろう。そんなものに興味はないと思っていたのに意外だ。
脱いだ外套の埃を払って戸棚に仕舞っていると、蝶番の軋む音に重なるようにして声がした。
「あの男に何を聞かされた?」
振り向くと、エスメが薄暗い室内で猫のように目を光らせている。
幼い頃から彼女は怒りの感情を激しく表す人だった。歳を重ねても変わらず、けれど以前とは違って妙な凄みを持つようになっている。全身を怒りで染め上げたエスメは、影の中に潜む魔性のように危うく、妖しいほどに美しい大人の女性に見えるのだ。
「あの男から何を聞いたの」
問いを重ねる彼女の暗く光る目を見つめ返していると、夕食の鐘が鳴った。
夕暮れに響く音はどこか物悲しくて空虚だ。そんな風に思うのは多分私がここにいられる残りの時間を無意識のうちに数えているからだろう。その中で最も貴重と言える食事の時間を反故にしなければならないようだ。
私は寝台に腰掛け、彼女の方を見ながらセスから聞いた話をした。
――大悪魔アベルカインの領地にある緑の森の奥の隠された湖。剣の君とアシュレイ様は立ちふさがる魔物を退けつつ、そこにたどり着いた。
湖には女神の欠片が聖剣を抱いて眠っていた。
それを目覚めさせたとき、予期せぬ出来事が起こった。突如アベルが降り立ち、聖剣を手に入れようとしたのだ。
彼らは戦い、剣の君が勝利した。女神の欠片は重傷を負ったアベルにとどめを刺すように告げて、剣の君に聖剣を授けた。
ここからが、秘匿された物語だ。
剣の君とアシュレイ様は何故聖剣を求めるのかをアベルに尋ねたという。彼は答えなかったが、彼が従える悪魔――ロスじゃない、多分アベルの無茶ぶりを的確に処理してくれる従者めいた悪魔がいるのだ。その悪魔が語ったのは、アベルの下に庇護されている人間の少女が聖なるものを讃える狂信者たちによって刻印を刻まれ、器にされてしまったこと、現在魂を封じ込められて意識を失い、いずれ彼女という個が消滅すること、アベルがそれらを断つために聖剣を求めたことだった。
その後何が起こったのか、セスがそっと口を閉ざしたので私は知らずにいる。「養護院で暮らす子が知ってしまうとこの先大変だと思うから」と意味ありげに微笑んでいた。
けれどアシュレイ様と剣の君が魔王を倒して。エスメがここにいて、アベルが会いに来るいまがあるのなら、だいたいのところは想像できる。
私の話を聞いていたエスメは気付けばいつもの、皮肉屋で不機嫌な少女に戻っていた。
「……中途半端だな。その先のことは聞かなかったの?」
聞かなかった。聞くべきではないというのならそうなのだと思ったし、知ると危険が及ぶかもしれないという事実が秘められているとわかったからだ。
聖女が運営する養護院の子どもが知るのはよくないと思われるそれは、つまり。
ちりーん、ちりーん……と鈴の音が夜空を震わせる。礼拝に向かう修道女が鳴らす清めの音色。日常の一部として当たり前のように耳にしていたそれが、いまはなんて薄ら寒く聞こえるのか。
彼女たちは悪魔が言うところの、幼い少女を利用しようと企んだ『聖なるものを讃える狂信者』の思想に従う。敬虔な信徒に過ぎない何も知らない人々だけれど、そんな人たちに一欠片の罪もないと誰が言えるだろう? 彼女たちの神様なら言ってくれるかもしれないか。
同じ音に耳を澄ましていたエスメが、ふん、と笑う。
私も静かに笑い、話は終わりと決めて、お互いに隠し持っていた焼き菓子や飴をその日の夕食に代えて空腹を満たした。
その夜、私は夢に沈みきってしまう前に遠くへ思いを馳せた。
私は住んでいたところで悪魔に襲われて家族や家をなくし、寄る辺なく彷徨っていた子どもだった。いまは一時的に養護院という小さな世界に守られ、世界に出て行く日を待っている。ここでは規則正しい日々、定められた仕事を間違いなくこなし、慈しみと愛を持って人と接することが正しいのだと教えられてきた。それを守れば幸せでいられるのだと。
けれど大きくなるにつれてわかったことがある。
世界には多くの人、その数だけの考え、思想、信じるものがあって、正しいものなのなど一つもないということ。
人々が当たり前のものとする常識や正義もまた。
剣の君が正義で、魔王が、大悪魔アベルカインが悪だと言い切ってしまえば、私は。私は。足繁く彼女のところへ面会に来るアベルを、危険ながらも懸命に役目を守るロスを、エスメの過去を、成長した彼女と同じ部屋で過ごす居心地の良さを思う私は、疑いようもなく悪と呼ばれるもの。
その自覚は間違いなく、私が守られた世界から出て行く日がそう遠くないうちにやってくることを示していたのだった。
エスメは次の仕事の日に普通の顔で出勤し、リアンには怒りの顔を、セスには困った顔を向けられていた。
セスはエスメに話しかけたがっていたがリアンの目があってなかなか叶わず、エスメは敏感にそれらを察知して絶対に捕まらないように避けていた。
そんな日々が続くうち、その悲嘆をセスはふとしたときに私に零すようになり、また私も、気配を察知するとお茶を淹れて差し入れながら話を聞くのがお決まりになった。いい大人が年下の少女に翻弄されてがっくりきている様はおかしみがあったし、エスメの素性を知りながら忌み嫌うことのない人は珍しかったのもあるけれど、養護院の外にいる大人とこうも長く接する機会がなかったので話をするのが面白かったのだ。
私は聞き役になることが多かったけれど、彼も大人なので気を遣って話を振ってくれ、どちらかが喋り過ぎということはなかったと思う。まあ話題が趣味や休みのときの過ごし方、食べ物の好き嫌いといったものなので彼が会話下手なのは明らかだったけれど、口数が少ない私が言えることではない。
そしてリアンは、そんな風に愚痴をこぼす相手が私になったことを、私本人にぐちぐちと言った。時に本来エスメに向けるべき文句も混じっているのは、本人に言ったところで黙殺されると知っているからだろう。けれどそんなとき彼が淹れてくれるお茶は私のそれよりもずっと美味しくて、必ず何らかのお茶菓子が添えられている。
けれど楽しい時間にも必ず終わりが訪れる。
屋敷が少しずつ片付き、仕事の山を超えたセスが引っ越しの段取りをつけて動き始めると、私たちの仕事は減っていった。リアンは引っ越し先で采配を振るうために不在がちになり、彼の薫陶を受けた私たちが、ぽろりぽろりと落ちてくる依頼を整理し、手紙をまとめ、訪問者の名前と要件を聞き取り、引き継ぎ事項を書き置きするなど代役を果たした。
出しておいてくれと頼まれた手紙や、おつかいも私たちの仕事になった。厨房を片付けてしまったので、大抵の場合は、郵便物を出して届いている荷物を受け取った後、セスや帰ってくるリアンの食事となるものを市場で調達するという道順になる。
私たちは必ず二人で行動するよう修道女から、セスやリアンからも厳命されていたので、ここでも行動をともにしていた。エスメはどうかわからないけれど、暮らす街の中とはいえ同行者の存在は心強かった。一人歩きが怖いとか単独行動が嫌だというわけではなく、養護院の人間が一人でうろついていると脱走と思われて連絡が行くか、悪さをしようとしていると勘違いされて捕まえられるなんてことが起こりうるからだ。
二人ならお使いなのだと思ってもらえる。お年寄りたちが声をかけてくるのは、意味のある外出だと確認する意味合いがあった。
今日もそれらに挨拶を返して、手紙を出し、市場に向かおうとしていたときだった。道の先にあった店の扉が開き、「ありがとうございました」と店員に頭を下げられていた男性が、ふとこちらを見た。
整った顔立ちでも特に印象的な青い瞳が大きく見開かれ、「あ」という声とともに動きが止まる。どうしたのだろうと思いながら気付いていないふりで道の角を曲がろうとしたとき、隣にいるエスメが一瞬、ぴく、と反応し、誰にも悟らせないよう反応を押し殺したのを目の端で見た。そのまま私を追い越して先に行こうとする。
「待ってくれ!」
ひらりと翻った黒髪を一房でも、と必死な声とともに伸ばされた手は、ばしっ、と鋭く打ち払われた。
「あ……すまない」
しかし男性は怒ることなく、感情を露わにしたことを恥じるように手を引っ込める。
エスメの隣で私は改めてその人をよく見てみた。金色の髪と青い瞳は高貴な人々に多いという特徴だ。整った顔立ちからも、しっかりとした仕立ての輝く釦や刺繍で飾られた上着や、光る革靴、絹の手袋に包まれた両手からも、その可能性が高いと思った。
私は彼が記憶にない見知らぬ人物であると確認して、エスメを窺った。
彼女は暗く険しい表情で黙り込んでいる。立ち止まってしまった不覚に苛立っているがそれを表に出せず、けれど逃げ出すのは自尊心が許さない、だから話しかけるなという気配を漂わせていた。
それを感じてしまったらしく男性は苦笑を浮かべた。けれどどこか親しみを覚えた優しいものだ。
「その……元気だったかい? 近々院に伺おうと思っていたんだが、ここで会えてよかった」
どこか困った様子の彼と、彼がもたらす表情、視線、声、言葉、すべてを受け流そうとして俯いて目を伏せるエスメ。
傍らの私は二人の邪魔だけはしないでおこうとじっと黙っていた。エスメが助けを求めたとき、いつでも間に入れるように、あるいは手を取って駆け出せるように目を離さないでいたけれど、彼女はこちらを振り向きもしないし、呼びもしなかった。それどころか私に目を留めたのは男性の方だった。
「ええと君は……もしかして彼女の友人かい? 僕は……」
彼は、この街の近くに邸を持つ、どこそこという名の家の者だと自己紹介した。その名前にはうっすら覚えがあった。養護院に寄付をしてくれている貴族だったように思う。彼はその家の若様のようだ。
若様はそのまま、エスメと知り合った経緯まで話してくれた。彼は数年前にここから離れた領地の近くで、まだ幼かった彼女に命を助けられたらしい。そのまま別れてしまったのでお礼をしようにもどこの誰ともわからず、それでも忘れることができずにいたが、この街を歩いていたときに偶然すれ違って再会となったらしい。制服を着ていたので養護院で暮らしているとわかったそうだ。
高貴な生まれの人だが私にもにっこり笑いかけ、帽子を取って挨拶をしてくれた。善人なのだろうけれど、エスメが積極的に関わりを持ちがたる性質の人ではないように思える。彼はなんというか、そう、真っ当すぎるのだ。髪も瞳の色も、身なりも、表情も、すべて日向で作られたように思える。
「何のご用ですか。いま仕事中なので、何もなければ失礼します」
地の底から汲み上げた水のような突き放す声音で、台詞でも読み上げるみたいにエスメが言った。スカートの隠しに手を突っ込むと、現れたのはどこかで見た腕輪だった。間違っていなければエスメが一人で帰った日に持っていたものだ。
「それからこれ、お返しします。お礼なら言葉でもらいましたから」
「いや、君が持っていてほしい。君に似合うと思って、会えたら渡そうとずっと持っていたものだから。……ああそうか、もう流行遅れだったね。すまない、今度新しいものを見繕ってくるよ」
「そんな話はしていませんし、必要ありません」
そのまま「もう姿を見せるな」と言いそうだと思ったが、さすがにそこまで無礼ではなかった。けれど心底うんざりしているのは伝わってくる。立派な装飾品をたくさん持っているエスメだがお礼の品を無下にはできないらしい。差し出された腕輪はそのまま二人の間でどこにも行けないでいる。
そんな腕輪を哀れに思ったのか。
「どうしても返すと言うのなら。どうか僕の願いを聞き届けてくれないだろうか」
ぴくり、と腕輪を持つ手が揺れる。同時にエスメは挑み掛かるような目で彼を見た。そんな態度すら愛おしいという目をして、彼は帽子を取り、その場に跪く。
「一緒に王都に来てほしい。僕の妻になってくれないだろうか?」
突如として出現したまるで物語のような一風景に、私はただただ目を瞬かせる。それほど唐突で非現実的だった。ただの小娘が遭遇するなんて思えないくらいの。
同じ年頃の少女たちが騒ぎの場に集まって様子を窺う気持ちが、いまになってよくわかった。エスメがどう答えるのか気になって仕方がない。
「お断りします」
ぴしゃっと叩き落とすような鋭さで彼女は言った。
そして若様はなかなか豪胆だった。そう言われてるのはわかっていたとでもいうように笑う。
「理由を聞いてもいいかな」
「あなたと結婚したいとは思わないからです」
「どうしてそう思うんだい?」
「あなたのことが好きではないからです。むしろ、とても鬱陶しい」
私はぎょっとし、周囲でも同じ気配を感じてさっと目を走らせた。道の真ん中の出来事だから、通りがかった人々がすっかり野次馬と化している。私たちよりいくつか年上の、髪や身なりに気を使った街の女性たちは、斬るように断ったエスメを呪わしそうに睨んでいた。
若様はそれに気付き、笑って立ち上がると帽子を被った。
「仕方がない。今日のところは引き下がろう。でも腕輪の代わりにお願いは聞いてほしいから、近々連絡するよ」
「腕輪もお礼も何一つ受け取りません。あなたのすべてが迷惑です」
見切りをつけたエスメが私の腕を引き、野次馬に突っ込んだ。割れた人垣を突っ切ったことでやっと非日常な現場から離れることができた。
しかし軽食を買って戻るのが遅れたせいで、セスには心配を、リアンにはお小言をもらってしまった。エスメが何も言わないので言い訳なんてできるはずがなく、やむなく黙っているほかなかった。
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