第11話

 ばたばたばた、と遠ざかる足音を聞きながらアベルはぼんやりと殴られた頬を撫でている。音は大きかったが腫れ上がるほどではない、けれど爪が当たったのか細い傷ができていた。

 長く骨ばった指がエスメのつけた傷をゆっくりとなぞる。

 どうして、その手で彼女に触れないのか。

 胸にあるものを言葉にせず目を伏せるだけで何故悲しみや望みを伝えないのか。

 大悪魔と呼ばれる人なのに、悪魔と魔物を従える夜王になるというのに、大事な少女一人追いかけることもそこに留めておくこともできない。私には、目の前の大悪魔が人間よりも大人よりも無力な存在に感じられた。そして人間のように繊細で柔らかな心を抱えているとも思った。

 私は、彼らの物語を知らない。二人がどのように出会いどんな日々を経て、一緒にいるようになったのか。魔物に襲われた若様を助け、再会を願うほど鮮やかな印象を残したエスメと、そんな彼女とともにいた大悪魔のアベル。魔王を倒した剣の君やアシュレイ様と知り合うような経験をして、養護院でも己を失わず埋没することなく『特別』であったエスメ。そんな彼女の成長を度々訪れることで見届け、夜王という統治者になっておきながら、エスメを手放す覚悟で将来を説いたアベル。

 二人が想い合っていると気付かない方がおかしい。

 養護院にいたエスメがアベルの訪れを楽しみにしていたこと。彼を悪く言ったサリーに剥き出しの怒りを見せたあの日のことは忘れられないし、それほど思うからこそ夜王となるアベルからなんの相談もなかったと憤ったのだ。その他の事柄には興味を示さず、陰口を叩かれ、無視され私物を隠され壊されても何も感じていないようなエスメが、あれほど声を荒げ、輝くほど感情を露わにするのはアベル以外に他にはいない。

 そんな彼女が日に日に成長し、黒曜のような少女になるのをアベルが見守ってきたこと。エスメのためだけの衣類や装飾品の贈り物、彼女の行動を常にすべて把握しているのもたったいま明らかになり、呼ばれればどこへなりとも駆けつける。大悪魔のアベルが種族の違う少女のために費やしたものを思えば、彼女が誰よりも、もしかしたら同族よりも大切なのは明らかだ。

 そんな風に想い合う二人はいま岐路に立っている。

 一つは、お互いが別の道を歩む選択。アベルは夜王として、エスメは人間としてそれぞれに生きる。恐らくこれが最も平和で心安らかな日々を送ることができるだろう。エスメにはその力があるとアベルは思っている。

 もう一つは、お互いに手を取り合い同じ道を歩む選択。立ち塞がるのは種族の違い、一国の統治者とただの少女という身分差と性差、それぞれの種族からの反発と差別、もしかしたら命の危険もあるかもしれない。少なくともいつも笑っていられるとは思えない過酷な歩みになる。けれど自分の片割れと思えるような相手とともにいられる幸福がある。

 アベルは前者を、そしてエスメは後者を望んでいる。そしてエスメは前者が彼の望みであると理解し、アベルは後者を選ぶことでエスメが不幸になると思っている。すれ違いだ、わかりやす過ぎるくらいに二人は相手の幸せを思い、心を痛めている。

 私はエスメと同じ部屋で生活しているけれど深い話は一度もしたことがない。時々彼女が、どうしても呟かずにはいられないときの聞き役になるくらいだ。彼女の交友関係を思えば近しいと言ってもいいけれど、そうであっても私は彼女の踏み込むような振る舞いはしてこなかった。そうするべきではない、そうする資格はないと思ったからだ。

 物語の主人公がエスメなら私は、そう、名前のないその他大勢。

 エスメのように強い心も、美しい顔や伸びやかな身体も持たない。周囲とは異なる幼少期を過ごしたわけでもなければアベルのようなひたむきな思いを向けてくれる人もいない。偶然主人公の近くにいるだけ。たとえ彼女の言葉を最も近くで聞けたとしても、主要人物になるわけではない。

 驕るな。身の程を知り、凡人に甘んじろ。何故ならただ人こそがこの世の中で極めて幸福に暮らせるものだからだ。無責任に物を言い、噂話に興じ、衣食住のことだけを考え、自分の利益と幸せに貪欲であっても許される。清廉潔白な聖女でも聖剣を手にする勇者でもない、ただの人間こそ。

 私のような無力な人間には、普通の人間でいることが自らを守る最大の術だ。

 でも、と私は唇を結ぶ。胸を押さえ、もどかしさに服を鷲掴みにした。

 エスメとアベル、このままお互いのためだけを思って自分の思いを捨ててしまいそうな二人をこのまま見過ごしたくないと思うのだ。

 ここで発言するのは私の主義を違える行為だった。主役に声をかける凡人は、名前がない端役に格上げされる。かけた言葉の中身によってはさらに役が上がる。名もなきその他ではいられなくなるだろう。

 心の中で葛藤が吹き荒れる。

 名を持つことで幸せが失われる、とは、何故か思わなかった。私が恐ろしかったのは、自分の言葉や行動で誰かの未来や選択を変えてしまう可能性だった。

 名を持つ、すなわち言動に責任を持つこと。通りすがるだけの存在や、数日もすれば顔も思い出せなくなる有象無象ではいられなくなる。

 許される、だろうか? 私が、何者でもない存在でいた私が、エスメの物語に干渉すること。悪い方向に変えやしないか。良い結末へ導けるだろうか。いいやここで思い上がってはいけない、何一つとして特別なものを持たない私が何かを変えられるわけがない。誰かを、その未来を、助けられるなんて奇跡はない。

 それを承知で言わずにはおれないのは――私が、エスメ(主人公)に幸せになってほしいと思うからだ。

「……アベルさん」

 呼びかける声はみっともなく掠れて小さく、震えていた。臆病そのものの声にくじけそうになりながら、私は大きく息を吸い、気持ちを改める。

「アベルさん。アベルさんは、間違っていると、思います」

 エスメ、ごめんなさい。あなたの気持ちを代弁するふりをして、私は自分の願いを押し付けようとしている。

 幸せになってほしい、なんて彼女は誰にも願われたくはないだろう。万人は幸せにならなくてはならないなんて呪いをきっと鼻で笑い飛ばす。たとえ二人が異なる道を歩んでも、間違えたと思ったら何もかも振り切って、道無き道を突き進んでアベルに追いつこうする。私が思うエスメはそういう人だ。

 胸の痛みを味わっていたアベルの視線に、私の卑小な心臓は凍りついてしまいそうだった。真昼の光の中でエスメのそばにいる彼とは違う、大悪魔という魔性の闇を感じた。結局無駄な行いに終わるかも知れない、それを承知で私は、強制的に口を閉ざされていないのだから、と言葉を続ける。

「エスメが幸せになる選択をしてほしい、そう考えていることはわかります。だから突き放すようなことを言ったし、アベルさんの事情に関わって抜け出せなくなるのを避けるために、何をしているか説明しなかったんですよね。アベルさんはただ、エスメには生きる道がたくさんあるってことを知ってほしかった。ずっと昔からそれだけを考えていた」

 大悪魔の養い子だったエスメを想像してみる。もし寄る辺のない幼子が大悪魔と行動をともにするのなら。きっとその子は人間の世界から弾かれ、どのように生きていけばいいかわからなかった迷子だったはずだ。アベルに助けられた迷い子は彼のそばで見聞きするもので世界を学ぶだろう。そしてますます人の暮らしから遠ざかる。

 それをアベルは憂慮した。どのような考えを持とうともエスメは人間、人の世で暮らしていく方が正しい在り方だ。その方法を知らないから選択肢に上がらないだけ、ならば人として暮らし、人間の生活の良し悪しを知ればどちらが自分にとって幸いかわかるはず。

 闇の中で、魔性の瞳が揺らめき、私を値踏みするように細められた。

「私が、何を間違っていると?」

「アベルさんにとって、エスメの幸せは平和に心穏やかに暮らすこと、ですよね」

「そうだ」

「それはアベルさんの考える『エスメの幸せ』であって、エスメの考える『自分の幸せ』ではないんです」

 瞳の光が剣呑さを強める。不愉快だろうに黙っているのは、私の言葉に興味を惹かれたからにほかならない。それだけに誤ったことや思い込み、見当違いを口にすれば、エスメには不利益だと断じられて始末されるかもしれない。私は再び心の中で覚悟を握りしめて口を開いた。

「私は悪魔や魔物のことを知らないし、夜王のお役目がどんなものか想像もつかないけれど、悪魔の王様なんだと思えば、きっととてつもなく責任の重い、大変なものなんだろうと思います。絶対に苦労するし嫌な目にたくさん遭うんでしょう。アベルさんがエスメにこうなってほしいと思うものじゃなくて、普通に思い描く幸せには程遠いのかもしれない」

 アベルは否定も肯定もしないけれどあながち間違っていないはずだ。

 相手を思う。相手の幸せを思う。相手を思うから自分の気持ちを封じ込める。しかし残念なことにそれが本当に相手のためになるかは別の話だ。長く続く平穏よりも豊かな暮らしよりも、傷付き痛み苦しむ果てしない難路にあるものの方が価値があると考える人だっている。

 そして多分エスメはそう思っている、思ってきたはずだ。

「でもエスメにとっての幸せは、アベルさんとずっとにいることだから。アベルさんの考える幸福度や平穏さなんて、エスメには的外れにも程があるんです。だから、アベルさんは間違っていると思います」

 気付いて。気付いて。どうか気付いて。ならばどうすればいいのか、二人の幸せのためにどう行動するのか。決められるのはあなたと彼女だけ。

 今度は思案するように目を細めてアベルは佇んでいたが、ふっと何かに呼ばれたように目を上げ、何かの声を耳にしたらしく息を零す。

 次に私を見たとき、アベルはエスメのそばにいる彼に戻っていた。

「エスメは無事に戻ったようだ。守り役を付けるから君も早く帰りなさい」

 どうやらここまでらしかった。

 配下の魔物に何らかの声をかけられたと思しきアベルに促され、私は抵抗せず素直に頭を下げるとぼんやりと前方に揺れる影に導かれて歩き出した。

 やりたいことをやった、けれどこの先どうなるかわからない不安で、足元の影がいつもより濃いように思える。水たまりのごとくずっぷりと足を取られてしまいそうだ。

「君は」

 沈み込む寸前に手を引かれるように、私は振り返る。

 私が去るのを見ていたアベルが、次の瞬間人間くさく苦笑した。

「君は、思っていたよりお喋りだな」

 赤面ものだった。自覚があっただけに。

 息を詰まらせ、全身から火を吹く羞恥に襲われる私を軽やかに笑って、アベルは現れたときと同じようにあっという間に姿を消した。

 お節介を焼き、弁えられなかった私は、待ち構えていた修道女による数日の外出禁止と罰掃除を与えられ、新王即位や聖座の聖女、悪魔を統べる夜王の誕生の話題で持ちきりになる人々の様子を見ることはできなかった。

 そして同じく外に出すとろくなことがないと判断されたエスメもまた、養護院のあちこちで様々な仕事を受け持たされていたので、彼女の思いや考えを窺い知ることは不可能だった。

 罰から解放された私たちはまた相部屋で過ごすようになったけれど、あのときのことがなかったようにエスメは振る舞ったし、私も分を超える行動に出た後ろめたさがあったので、そもそも会話がほとんどない二人の間で話題に上ることはなかった。

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