呪は神よりて
陽光降り注ぐ昼下がり。
渾然とした空気に包まれる街の通りを歩く小幸は、左右に立ち並ぶ店々に視線をやった。
この辺りに暖簾を掲げるは、大半が百年以上の歴史を重ねる老舗である。
しかし時折、見知らぬ看板を構える店が見受けられることを、ふと不思議に思ったのだ。
「……半月くらい前に通ったときは、無かったのに」
ハワグの中でもこの江鷹は辺境に位置し、帝の権力が及びにくい街だ。
故に皇都などとは違い、此処の住民は己の好きに店を持つことが出来る自由な気風を持つ。
とは言え、この変容は少しばかり気になる。
皇都から圧力をかけられている訳でもなかろう。この江鷹に於いて歴史の浅い店は比較的軽視されやすく、例え店を構えたとしても、すぐに買収されてしまう場合が多い。
形の捉えられぬ違和感に首を傾げていると、隣を歩いていた女性が言った。
「あれらは全て北の息がかかった店のようですよ。黒い布に赤の文様、北に住む一族の証です」
滑らかな声音でそう教えてくれたのは、衛生や小幸と共に屋敷で暮らしている女性、鴛花である。
いつもは下ろしている黒髪を今日は後頭部で結い上げ、すらりとした躰に朱の和服を合わせている。その美貌もさることながら、どんな色合いの着物であろうと全て品良く着こなせるこの女性に、小幸はひそかな憧れを抱いていた。
買い物の付き添いに来てくれた彼女のふとした言葉に、小幸は眉根を寄せる。
「北の? それは土地を管理している例の燎一族のことでしょうか」
「えぇ。彼らが治める北の街《
そう言って鴛花はある店の前で足を止め、暖簾と合わせて掲げられた布を示す。
「古くより江鷹に軒を連ねていた老舗は、近迦を統治する一族の長、燎祗様の指示によって次々に侵食されています。あの旗は、そう言った理不尽な目に遭わされた店である証拠、と言ったところでしょうか」
滔々と語る女の横顔を、小幸は盗み見る。
鴛花の貌に憂慮や苛立ちといった感情は見られない。ただそこにある現状を静かに受け止めていた。
「……何が目的なのでしょう」
「さて、わたくしには分かりません。新たな帝の即位に伴って勢力を増した皇都に歯向かうための些細な反抗、と衛生様は仰っておられましたが、本質はどこへやら」
軒先の旗より視線を外した女は、口許に手をやり上品に微笑む。
現皇帝の
――巨大な方眼に区切られ、呪力と武力により護られたハワグの中心、皇都。
あらゆる貴族や僧、武士達が神の加護を奉り、聖獣の神力によって秩序を保つこの列島の枢軸に座す男こそ、《帝》である。
古くに於いて神々を招聘した王の末裔と噂されているが、実のところ、誰もその男の顔を拝したことが無いらしい。
故に皇都の人々は口にする。――帝とは、神話時代から連綿と続く夢幻なのではないか、と。
先の戴冠式も人々の目に触れることなく行われたと聞く。その事実が、巡り続ける根拠の無い論に拍車をかけていた。
鴛花が再び歩き始めたので、慌てて小幸も後を追う。
「さて小幸様。他に買われるものはございませんか?」
「あ、はい。もう大丈夫です。わざわざ付き添って頂いてありがとうございました」
「お気になさらず。わたくしが小幸様とお買い物をしたかっただけですので」
おどけたように言う鴛花に、小幸も気楽な笑みを返す。
屋敷の中で彼女だけが唯一、神巫としての御役目の責務とは関係無く接してくれる。かねてより『さま』を付けずに呼んでほしいと言っているのだが、そこは立場上譲れない部分らしい。それでもこの美しい女性といるときは、変に気を張らずに振舞うことが出来ていた。
鴛花の要望で近くの茶屋に向かおうとしていた最中、ふと思い出したように彼女は言った。
「そういえば小幸様。靖央様は変わらずお元気ですか?」
「えっ……」
唐突な問いに、少女は言葉を詰まらせた。
何故なら、毎晩のように屋敷へとやってくる幼馴染のことを、どうも衛生は良く思っていないようなのだ。
神巫は極力、外界の人間との接触を控えなければならない。他の人間と密接な関わりを持つことで情が沸き、余計な念が生まれることを避ける為だ。
昨夜も夜に屋敷を出て二人で街の通りへ繰り出した。もしや、そのことに関して改めて何か苦言を呈されるのではと身を硬くした小幸に、だが鴛花は柔らかな笑みを浮かべた。
「ご安心ください。お叱りの言葉ではありませんので。……此処の所、この江鷹を騒がせている賊のことで、少し」
「賊?」
告げられた内容に、少女は首を捻る。
普段あまり外に出ない小幸は、街の情勢に疎い。故に鴛花の話は、彼女にとって初耳だった。
「頻度はそこまで多くありませんが、女子供を狙って襲い、金品の類を奪ったあげく殺しにも及ぶ悪辣な一団が、江鷹を中心とした小さな街々で確認されています。街の人々は、彼らを《
「北夷の、民」
「ただ己が欲に身を任せ、私腹を肥やす下衆な者共です。最近では非力な女性や子供が一人になったところを狙って辻斬りに及ぶ事件も増えていると漏れ聞きます」
その言葉に、少女は数瞬、硬直した。
唐突に立ち止まった小雪に鴛花は振り向き、端麗な貌に僅かな翳を落として続けた。
「毎夜、靖央様はお一人で屋敷まで来られているのでしょう? 連中の標的にならないとも限りません。充分に留意するよう、ご忠告なさった方が宜しいかと」
「…………、」
小幸の胸中を、悪寒が過ぎる。
本人曰く、靖央の住む家から屋敷までは人気の多い大きな通りを真っ直ぐ進めば良いだけらしいのだが、だからと言って危険が皆無とは言い難い。
あの小柄で純真な幼馴染が賊に襲われる様を想像すると、思わず身が竦んだ。
「……今日来たときにでも、言っておかなきゃ」
不安から来る肌寒さに腕を摩りつつ、鴛花と共に茶屋へと向かう。数種の茶葉をまとめて買い込み、そこから更に幾つかの店を回り終える頃には、すっかり辺りは夕の陽を纏うようになっていた。
通りに並ぶ老舗が次々に灯り籠へと火を入れ始める。
当然のように姿を変えゆく街並みを眺めていると、不意に鴛花に袖を引かれた。
「あまり遅くなっては衛正様がお叱りになります。早く帰りましょう」
小幸はともかく、鴛花を叱るような真似をあの男がするだろうか。
そんな益体無いことを考え、だが即座に頭を振った小幸は頷いて女の後を追う。衛生の眉根に余計な皺を寄せるような真似は、やはり彼女もしたくはないのだ。
見慣れた小路へ入り、屋敷へと続く最短経路を辿る。
次第に人気が薄くなり、暗がりが増えるようになると、先を歩く鴛花が冗談っぽく言った。
「本当はこういう薄闇の満ちる場所をこそ、気を付けねばならないのでしょうね。さすがに噂話が不運を呼び込む、などと言うことは無いでしょうが」
どこからが弦の旋律が聞こえてくる。
それはハワグに於いて、夜の訪れを知らせる合図だ。
鴛花の後を歩く小幸は、差し掛かった十字路を真っ直ぐ進みかけて、だが左より現れた人影にぶつかりそうになり、思わず身を捻った。
「あっ、ごめんなさ――――」
危うくこけそうになりながらも、何とか避けようとして――――唐突に突き付けられた平刃に、息を詰まらせた。
何の前触れも無く晒されたその凶器は薄闇の中でも鈍く輝き、小幸の眉間を狙ってぴたりと止まる。
「女が二人。無用心だな」
嗄れた声。
端的な言葉を耳に聞きつつ、さっと視線を横に振ると、少し離れたところで二人の男が鴛花を囲っていた。
全員同じ蛮刀を構えている。古惚けた洋装に身を包む彼等に油断無く意識を巡らせながら、麗人は苦笑を溢した。
「……冗談は迂闊に口にすべきではありませんね」
突如として現れた三人組の男達は、黒の紗布で口を覆っているため顔が判別しにくい。
だが辛うじて見える双眸には、確かな害意が感じられた。
鴛花に刃を向けていた二人の内、一方の男が厭らしい笑みと共に口を開く。
「良い女だ。この辺境の地にも、これほどの上物が転がっているとはな」
「あら、随分な物言いですね。女性を物だなどと。女が殿方の意を全て呑み込む生き物などとは、ゆめゆめ思わぬよう」
「気丈なことだ。だがその意気、いつまで保つかな」
蛮刀を握り直した男が、更に一歩踏み出す。
突き付けられる確かな凶器に、鴛花は音も無く後ずさりながら、だが嫣然とした笑みは収めないままに続けた。
「……街の人々に恐怖を植え付け、あまつさえ罪無き人を惨殺し、財を奪う北夷の民。貴方たちは、北の近迦の一族で?」
「聞いてどうする」
「いえ。ただそうなのであれば、全ての事件は長である燎祗様が企てたことになりましょう。族長が絡んでいるとなれば、帝が黙ってはおりませんが」
「はっ」
鴛花の言葉を、男は鼻で笑った。
「この江鷹は帝の影響力の及ばぬ辺境の地。ここで起きたことなど、遠い皇都に届くはずが無かろう。それに、何を知られようともお前たちはやがて殺されるのだから、恐れるものはない」
「蛮族らしいお考えで」
「それが北の民……燎の一族だ」
もう一方の始終寡黙を貫いている男が、素早い動きで鴛花の背後へと回る。
都に住む衛士や武士が携えている銀の直刀とは異なり、北の街、近迦の者のそれは短く、それでいて分厚い刀身を持つ。
相手を叩き斬ることに特化した得物を、彼等は真っ直ぐに構えながら、じりじりと距離を詰める。
たかだか女二人で、武装した男連中に敵うはずがない――。
そう信じて疑わない者達の下卑た笑いを、だが鴛花は淡い微笑で一蹴した。
「可哀想な方々」
艶やかな声音。
目を閉じて口許だけで笑う女の様を、彼等はどこか歪なもののように捉えた。
くすくすと笑みを零す女は、刃に晒されながらも、しなやかに立つ。
「貴方たち燎の者を始めとする北の民が、他の街でどのように呼ばれているかご存知で?」
「なんだと?」
「 "畏れ深きまつろわぬ者" 。それが北に生きる近迦の民である、と。なればこそ、神の加護に傅かぬ貴方達が知らぬのも無理はないでしょう」
「……何を、」
女の言葉を夜盗たちは理解出来ない。揃って怪訝の色を浮かべた彼等は、不意に残りの一人が先程から微動だにしていないことに気付く。
ひ弱そうな少女に刃を突き付けていた男。彼はまるで金縛りに遭っているかのように、全身を硬直させ、黙したままただそこに突っ立っていた。
その様子を見た鴛花は、また薄く笑う。
「帝の都は神呪の都。気高き聖獣と神の恩寵に守られた破魔の都でございます。……では、その呪は如何なる存在によってもたらされたものだと思います?」
「なに……?」
男の視線が、離れた位置に立つ少女を捉える。
此方に背を向けて佇む彼女の黒髪が、やがて虚空に靡き、淡い紫の光を纏い始める。
月の光を蓄えているかの如きその異様な光景に、夜盗たちは揃って固まる。
傍で微笑む鴛花の声だけが、やけに綺麗に響いた。
「聖なる巫女は神の側女。神々の神秘を授けられし神巫がこそ、現世に於ける神の写し身なのでございます」
少女が振り向く。
その瞳は、どこまでも深い赤に変じていた。
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