傍に在らん

 此処の所、衛正は毎晩のように書斎へ篭もっていた。

 四方全てを一面の書架が埋め尽くす、初めて訪れた者が見れば思わず口を開けて圧倒されてしまうような、そんな一室である。柱の各所には蝋燭を立てるための銀皿が取り付けられ、部屋全体を仄かな橙色に染め上げていた。漂う異質な雰囲気の中で、部屋の主である男は黙々と帳面に目を通す。


 俯瞰してみればそれなりに広い部屋ではあるが、書架に入りきらなかった無数の書物が至るところに堆く積まれている上に、ひとつとして窓が設けられていない為、尚のこと閉塞感がある。

 いつか部屋全体を綺麗に整理整頓し、乱雑に放られた数々の書物を棚に納めなければと常々思っている彼であるが、今はそんなことにかまけている暇など無かった。


「……『古き約定に従い、の者たちは澄んだ若き少女を求む』」


 衛正が読んでいるのは、この皇国が辿って来た歴史の変遷について書き記した史記である。

 非常に古惚け、風化し切って久しいそれを、彼は顰めた顔で以て見つめていた。


「『無垢なる少女は神に捧げし対価、そして神を俗世に呼び下ろした代償である。供物としての神巫を受け取った神は、やがて住まう彼岸世へと姿を消す。天に連れられた少女が如何な末路を辿るのか、それは常世の住民である我々にとって知る術の無い事項であろう』。……まさしく、その通りだな」


 古い帳面を閉じ、ふぅ、と一つ息を吐く。

 かれこれもう二時間近く書斎に篭っている。立ち込めている独特の匂いが、いい加減に彼の意識を朦朧とさせつつあった。


「待っているのは、神への転生か人であるままの死か。どちらにせよ、神に見初められた神巫はその時点で人としての生を終える。いつの時代であれ、それは不変だ」


 ここにあるものは、どれも国内や外洋諸国より衛正が取り寄せたものであり、彼の望みを果たす上で必要不可欠の代物だ。

 故に屋敷仕えの下女であろうとこの書斎には立ち入ることを許しておらず、だがそれが祟ってか、室内の乱雑さがそろそろ度を越しつつあるようだな、と衛生はふと思った。


「……男は基本、整理整頓が出来ない生き物だと相場が決まっているものな」

「言い訳は結構ですから、お気軽にお申し付け下さいな」


 不意に至近から声を掛けられた。

 振り向けば、そこには一人の美しい女性が品良く膝をついてこちらを覗き込んでいた。

 淡い若草色の着物に白く染め抜かれた帯を締めている。質素な装いは下女のそれと似通っているが、彼女達とは異なり髪を背に下ろしており、加えて帯の結び目が前に回されている。

 女はその整った貌に薄い笑みを浮かべて、衛生へと更に擦り寄った。


「この鴛花おしばな、貴方様のお言葉になら何でも従いますのに」

「女性はそう軽々しく己を売るものではないぞ」

「売る相手によっては軽々しくとも構わないのですよ」


 着物越しに伝わってくるぬくもりを感じつつ、衛正は彼女――鴛花をそっと腕の中に抱き寄せた。


「食事は済んだのか」

「えぇ、つい先ほど」

「すまないな。私が余計な調べ物を任せてしまったが為に、手間を取らせた」

「あら、衛正様が謝られるなんて珍しい。何か気に病まれるようなことでも御座いましたか?」


 その問い掛けに、だが男は応えず、ただ視線を横に逸らす。

 些細な仕草。しかし鴛花はそれだけで察する事が出来たのか、薄い紅を履いた唇を小さく吊り上げた。


「なるほど、小幸様のことですか」

「……、」

「暫く振りのお二人でのお食事だったのでしょう? 何か気さくな会話でも交わされましたか?」

「分かり切ったことを聞くな……」


 そう呟いて落胆する男の顔に、小幸の前で見せていた厳格な色は微塵も見受けられなかった。

 大きく肩を落とし、深い溜息すら吐いて情けない様子の衛正に、女は呆れたように眉尻を下げた。僅かに非難の色を滲ませた声音で言う。


「つまりはいつも通り威圧的な態度しか取れなかったと。常から散々小幸様と気軽にお話したいと仰っているにも拘わらず、どうして衛正様はそれが出来ないのでしょうね」

「別に話したいなどとは……」

「お黙り下さい」


 ぴしゃり、と言葉を遮られる。

 鴛花はその細く白い人差し指をぴんと立て、毅然とした面持ちになった。


「よいですか、衛正様。いくら神聖なる巫女の小幸様と言えど、あのお方はまだ齢十七の女の子なのです。お年頃の乙女にとって衛正様のような男性はどうしても怖く思えてしまうもの。ならば貴方様の方から歩み寄らなければ駄目でしょう」

「いや、それは重々承知している。しているんだが、どうも」

「言い訳は聞きません。まったくもう、折角二人きりになれる良い機会だからと、わざわざ作業が済むのを遅くしたのに……」

「なっ! お、鴛花お前、食事の時間に遅れたのはわざとだったのか!」

「そうでもしないと、衛正様、何かと理由を付けてわたくしを仲介人にしようとするでしょう」


 冷ややかさの滲む目で、鴛花は傍の男を見る。

 だが彼にしてみれば、己にとってものっぴきならない問題なのだ。


 ――神巫としての素質を持って生まれた小幸は、七歳の頃に衛正の屋敷へと連れて来られた。以来十年、衛正や鴛花、幾人もの下女達に囲まれながら彼女は育ってきた。

 故に客観的に見れば、衛正や鴛花は小幸の育ての親といっても良い。

 だが鴛花はともかく、この堅物な男が小幸をそのような目で見たことなど一度としてない。

 いや、見れない、と言った方が適切か。


「……仕方が無いだろう。私にとって神の招聘は絶対。小幸はその為の贄でしかないのだから」


 男の瞳に、淡い翳が落ちる。

 聞く者が聞けば何と非情だと非難されてしまう物言い。だが彼の心を知っている女は、慰めるような笑みを浮かべ、衛正の頬にそっと手を添える。


「不器用な人」

「……笑いたければ笑え」

「滅相も御座いませんわ」


 湛えるは、女としての艶やかな微笑。

 そのまま指先を滑らせて愛おしげに撫でる鴛花は、そうして燦然と言った。


「貴方様の夢こそ、わたくしの夢。貴方様が望むのなら、この鴛花、どのような凶事にさえ身をやつしますわ」


 囁かれる言葉に、衛生は度し難い熱を覚える。

 寝物語を紡ぐように、甘菓子をねだるように、ゆったりと体重を預けて来る女の体温を感じながら、彼は記憶に刻まれた過去へと思いを馳せる。


 ――かつて、とある街で娼婦として身体を売り歩く女がいた。

 毎日のように幾人もの男と肌を重ね、望まぬ快楽に身を委ね続けてきた女は、だが一人の男によって泥濘より救われた。

 その娼婦を愛した男は、女を己の屋敷に連れて帰り、いつしか彼等は共に住まうようになったと言う。


 惨めな暮らしから脱すること出来た女は、けれど自分が、男の望みを叶えられないことを知る。


 決して届かぬ無常の夢。


 奇跡を賜りようやく果たされるであろう願は、だが唯一、この神聖皇国においてのみ形を成す。


 神の寵愛に護られし神秘の在処。


 故にハワグには、今宵も月の光が降り注ぐ――――

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