日常の在処

 通りの両側に均等に並べられた燈篭が、淡い橙色の光で照らし出していた。

 幽玄な空気を纏う街を、様々な職種に就く者たちが自由に行き交う。

 時折目につく軒先に吊るされた灯り籠が、また違った朱の彩りを見せる。頭上より降る月の光と相まって、神秘の国に相応しい非日常の空気を醸し出している。


「……満月まで、あと七日くらいだね」


 夜空に浮かぶ三日月を見上げた靖央が、不意に呟いた。隣を歩く小幸もその視線を追って、夜の帳を見やる。

 外出するにあたって小幸は質素な格好に着替えていた。

 白を基調とした着物に黒く染め抜かれた帯。見栄えの薄い装いも、少女の整った容姿のお陰で華やかなものに昇華されている。


 ――神聖皇国ハワグは土地柄を問わず、宵闇の中でこそ息衝く。

 街に宵が訪れれば数多の老舗が灯り籠に火を入れ、かつて賜った神々の神秘を謳って至る所から芸楽の音が聞こえ始める。

 常に祭りの如き賑わいに見舞われる気風の中で、小幸は細い首を小さく傾げた。


「月を見ただけで分かるの?」

「何となくだけどね。前に本で読んだことがあるんだ。月の満ち欠けには一定の周期があって、大体十五日間隔で満月と新月を行き来するんだって」


 得意げに話す靖央は、どこまでも少年らしい純粋さに溢れていた。

 輝くような笑みを隣から眺めながら、小幸は己の貌に微かな鬱屈の色を走らせる。

 彼岸世の民を常世に降臨させる儀式は、どの時代も満月の夜に行われることが不文律である。神秘を彷彿とさせる月の光は神の力と呼応するからだ。故に招聘の儀は、真円を描く月が常闇を照らすその日に執り行われると、古くより伝えられてきた。

 つまり、小幸が神への捧げものとしての役割を果たすのは、七日後。

 ″その瞬間″ を経た自分が後にどのような運命を辿ることになるのか、小幸はあまり考えたことが無かった。


 次第に人気ひとけが多くなる。

 塗装が剥がれてくすんだ色を晒す石壁が連なる路地から、賑やかな活気を見せる大通りへと出る。

 夜空の下に広がる喧騒に、何処からか聞こえてくる笛の音が調和し、華やかな雰囲気に満ちていた。

 一人では滅多に外出しない為、今のように靖央を伴って屋敷を出た際は、必ず街に住む人々の姿を目に収めるようにしているのだ。


「そうだ小幸ちゃん、知ってる?」


 灯り籠の火に照らされた人の営みを眺めていると、不意に幼馴染が訊ねて来た。


「こないだの皇位継承があってから、西の街の《郭乃くるわの》に新しい衛士隊が設立されたんだって。なんでも皇宮仕えの精鋭が揃えられたみたい」

「……郭乃って言えばハワグの中でも有数の歓楽街じゃない。そんな街にどうして衛士隊が出来るのよ」

「だからこそだって皆行ってる。最近、郭乃は不可解な事件が立て続けに起こってるらしくて、街の治安を見直す為に編成が行われたって」


 真剣な面持ちになって、靖央は言う。

 元より郭乃は、皇都と深い関わりを持つ街として知られている。常に皇都の監視下に置かれながら、独立した情勢を保ち続ける奇特な土地であり、同時に最も神への信仰が強い街でもあるのだ。

 小幸たちの住む江鷹よりも、なお色濃い神秘に包まれる歓楽街。

 北の領土もそうだが、先の皇位継承以来、各方面で些細な争いが絶えぬようになりつつあるな、と小幸は思った。


「余所の街のことなのに、随分と詳しいのね」

「勿論だよ! なんてった僕は、大きくなったら衛士になるって決めてるからね!」

「……あぁ、そういえばそうだったわね」


 爛漫と目を輝かせて言う靖央に、少女は苦笑を送った。

 同年代の男子と比較しても小柄な部類に入る彼であるが、常から将来は立派な衛士になると語っている。

 聞くところによれば、その為に自分で剣の稽古をしているらしい。

 彼のような小さな男子がきっちりした制服を身に着け、腰に剣を佩いている姿を思い浮かべ――小幸は思わず吹き出してしまった。


「えぇ!? 何で笑うのさ!」

「ごめんなさい、決して悪気はないから……ふふっ」

「酷いよー! 僕は本気なのにー!」


 そんなことは百も承知だが、面白いのだから仕方が無い。

 とは言え、実直で純粋なこの少年が隊に入れば、さぞ立派な剣士になるのだろうとも思う。

 ――あわよくば、そんな幼馴染の姿をこの目で見てみたい。

 堪える笑みの下で、無意識に小幸はそう思ってしまい、胸中に寂寞とした風が吹き抜けた。


「……大丈夫よ。あなたならきっと衛士になれるわ。巫女の私が保障してあげる」

「うー、なんだか釈然としないなぁ」


 笑われたことに納得していないのか、靖央は尚も頬を膨らませる。

 だが、小幸が揶揄い靖央が揶揄われるのはいつものことなので、彼もすぐに元の無邪気な笑顔に戻った。

 親元を離れ、神巫として衛生の傍で暮らし始めて、十年近く経つ。

 それに伴い周囲の環境は丸ごと変容を遂げたが、唯一、この少年だけは変わらないでいてくれる。

 それによって自分がどれだけ救われているのか、けれど小幸は恥ずかしくて、自身の気持ちを彼に打ち明けたことはなかった。

 口にしかけた言葉を寸でのところで嚥下し、代わりに穏やかな声音で言う。


「やっぱり靖央は靖央ね」

「え、それどういう意味?」

「そのままの意味よ。前だけ見て真っ直ぐに進むところ、昔から変わらない」


 何処からか囃子の音が聞こえてくる。

 高揚を誘う笛と太鼓の旋律に身を委ねながら、少女は今一度、夜の月を見やった。


「この国の人は、神様に奇跡を乞う人ばかりだもの。何か成し遂げたい夢、果たしたい野望があれば、何よりもまず祈りを捧げる……それが普通になってしまっている。まぁ、"神聖皇国" って言うくらいだから、それは仕方のないことかも知れないけれどね」


 神秘の国に等しく降る月の光が、少女の貌を嫣然としたものに染める。


「でも靖央は違うでしょう? 神様に祈れば、今すぐ衛士になれるかも知れないのに」

「あー、うん。確かにそうだね」


 並び歩く幼馴染は、困ったように後頭部を掻いた。


「でも、正直僕は、神様とか言われても分かんないから。小幸ちゃんも言った通り僕はまだ子供で、自分の目で見たことしか信じられないから」


 そう言う靖央は、何処か恥ずかしげで、それでも確かな意志のある顔つきをしていた。

 あまり見たことの無いその凛とした表情を、小幸は隣から物珍しそうに眺める。


「もしも自分の目で神様を見ることが出来たら、その時ようやく、僕は神様を信じられるんだろうなぁ」

「……信じたら、祈る?」

「どうだろ。夢は自分の手で成し遂げなきゃって思うけど、まぁあまりにも僕に剣の才能が無かったら、お願いするかもね」


 無邪気な笑顔。覗く白い歯が、やけに眩しく見えた。

 幼馴染の思いを聞きながら、小幸はふと、自身の手に視線を落とす。

 傷一つない、きめ細やかな肌。陶器を思わすこの膚だけ見ても、これが神に気に入られるための供物であることが分かる。

 穢れた少女に神は興味を示さない。

 故に彼女は幼い頃より、まるで割れ物を扱うかのように慎重な環境の下で育てられてきた。

 隣に立つ靖央のような、先の未来を夢見る自由を与えられることもなく。


 ――もし今、ここで自傷行為に走ったならば。


 そんなことを考え、少女は即座に首を振った。

 神巫として生き、そして果てる以外に、己の存在価値など無い。

 人は奇跡を貪欲なまでに求める。常世の住民である矮小な人間が神に声を届けるには、偽り無き情愛と誠実を捧げるしかない。

 穢れを知らぬ無垢なる少女は、その体現だ。

 そう母に聞かされた小幸は、とうに自らの運命を受け入れた筈だ。

 にも拘わらず、在る筈の無い未来に想いを馳せてしまうのは、それこそ奇跡を信じているが故か。


(……なんて、ね)


 自身の頭に巡る思考に、少女は小さく笑った。


(覚悟が出来れば後悔は生まれない。……衛生様の仰っていた通り、私にはまだ、覚悟が足りていないようね)


 薄く艶めく唇が、嫣然と笑みを湛える。


「ねぇ、靖央」


 道の両側にぽつぽつと見受けられる露店の品々を輝く瞳で眺めていた少年は、掛けられた声に振り向いて応じた。


「なぁに?」

「もしも私が死ぬしかない運命に立たされたら、あなた、どうする?」

「え、」


 唐突に投げられた問い掛けに、靖央は呆けたように固まった。

 彼にしてみれば、何とも真意の掴めない突飛な質問だったことだろう。

 だが小幸は、あくまでも「もしもの話」として訊ねた。澄んでけぶる黒瞳は一抹の憂慮を捨て去り、とうに毅然としたそれへと移り変わっていた。


「小幸ちゃんが死ぬしか……って、それ一体どういう状況なの」

「だから言ったでしょう、もしもって。想像のお話よ」


 夜空の月や周囲の渾然とした喧騒に目をやりながら、少女は笑う。

 細く涼やかな声は、不思議なほどに余分な感情が籠もっていなかった。

 ――そう。

 自分の立場を受け入れるには、あらゆる欲と情味に蓋をしなければならない。

 でなければ、いずれ発狂さえしてしまうだろう。

 ひたすらに己を統制し、取り繕い、普遍を演じる。

 なればこそ、一人の少女は神に見初められるのだから。

 だから、これでいい。

 いつも通りの、幼馴染同士が交わす益体無い会話である。


 しかし、直後に掛けられた言葉に、少女の心は微かに揺らいだ。


「泣くよ」


 短い、だが強い情の籠もった応え。

 小幸は思わず足を止め、いつの間にか数歩後方で立ち止まっていた幼馴染を振り返る。

 純粋を絵に描いたような少年は、真っ直ぐな瞳で、小幸の双眸を見据えていた。


「……靖央?」

「泣くよ、絶対に。僕は君のために泣く」


 まるで嘘を吐くことを知らない、何処までも真摯で直情的な声音であった。

 ――やはり変わらない。

 どれだけ小幸が変質を遂げようとも、この少年が変わることはない。

 神への供物として生きる中で、避けられなかった環境の変容。

 それでも唯一そこに在り続ける日常を、彼女は靖央に見た。


「……ありがと」


 やがて神巫の少女は静かに告げた。

 その整った貌に、年相応の愛らしい笑みを浮かべて。



「それなら私は、喜んで死ねる」


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