神儒舞
「――祇園に参れば鳥は鳴く」
開け放たれた障子。
薄闇の漂う室内に常夜の涼やかな空気が穏やかに入り込む。
「諸行を眺めて悟りを開き、けれども神は応えんか。人の言の葉に力は宿らず。神の教えの神言葉」
揺蕩う気を撫でるように指が空を滑り、無音の中に不可視の飛沫が沸き起こる。
円を描くように身を翻すと同時、袖口の銀鈴が洗練された音を奏でた。
聞いた者の心を洗うようなその音色は、外の庭より微かに聞こえる虫の音と同調し、安らぎの旋律を生み出した。
小幸は浅い呼吸を繰り返し、自身の中に宿る気を制御する。
「宵に交じりて姿をあらはす。月に紛れて姿を隠す。盛者必衰もとうに過ぎ行き、今は無常に死を待つばかり。嗚呼、私の吐く愛は誰にさえも届かんか。禊ぎ身削ぎて身体を清め、けれど来たるは末も恐ろしい静謐でありんす」
心の内、精神の奥底を神が覗き込むための、己の本性を曝け出す神舞。
ひたすらに清潔に、ひたすらに艶やかに。
空に広がる黒髪が大きな波紋を描き、月光を帯びて燦然と煌めく。
両の瞼を閉じた小幸をそのまま深く息を吸い、辺りに漂う気を体内に巡らせる。
己が身の内を洗練された空気が循環する感覚に陥りながら、昂ぶりかけた情動を、息を吐く事によって支配する。
「……悲哀を纏いて私は踊る。やがて沈む、月夜をこの目に収めるまでは」
人の精神を掌握せしめる、無垢な少女の聖なる舞は、清澄を極めた鈴の音の彩りにより、一先ずの終着を迎える。
最後に外の庭へと身体を向けた小幸は、数多の星々が瞬く夜の帳に悠然と浮かぶ、紫銀の三日月へと手を差し伸べた。
それはまるで、矮小な存在に過ぎない人間が奇跡たる神々に救いを乞う仕草のようであった。
仄かな熱が少女の脳を冒す。
努めて静かに呼吸を整えた少女はゆっくり手を下ろし、静かに佇む。
流れるような動作で振り返った彼女の目に、見入るあまりに呆けて固まる幼馴染の姿が映った。
その様子が可笑しくて、小幸は品良く口許に手をやり小さく笑った。
「気が利かないのね。何か感想は?」
彼女の言葉と共に、場の空気がいつものそれへと戻る。
張り詰めていた緊張が解け、弛緩が生じる。その事にかなり遅れて気が付いた靖央は、ハッと我に返った。
「あっ、ご、ごめん。……やっぱり何度見ても綺麗だね、小幸ちゃんは」
「私じゃなくて舞についてよ」
まったくもう、と呆れて嘆息した少女は、一先ず開け放っていた障子を閉める。
本来の神儒舞は更に多くの手順があるのだが、取り敢えず基礎たる部分を確認してみた。
先程の一連の舞はこれまで幾度も練習してきたこともあり、身体の髄まで染みついているのだ。
「そう言われても、僕は巫女舞の良し悪しなんて分からないからなぁ」
「知ってるわ。言ってみただけ。靖央はまだまだお子様だものね」
「あ、酷い!」
揶揄い文句に、無邪気な少年は頬を膨らませて憤慨した様子を見せる。その姿がまた可笑しくて、今度は思わず吹き出しそうになるが、何とか堪えた。
靖央にとって知る由の無いことであるが、神儒舞は本来であれば他者に見せて良いものではない。
神巫はひたすらに一人で稽古を重ね、招聘の儀式のときに初めて、己以外の者に神秘の舞を披露する。
だが、小幸が靖央の前で舞の稽古をするのはこれが初めてではない。
もしも衛生に知られたら酷い仕置きが待っているだろうな、と考え、仄かに苦笑した。
豊かな艶を蓄えている黒髪を撫で付けながら、小幸は不意にあることを思い出し、無邪気な幼馴染を振り返る。
「……そういえば靖央、あなたのご両親は北部にまで出稼ぎにいってるのよね」
「うん」
「衛正様から、北はかなり荒れた状況にある、と聞いたのだけど」
「うん、僕もお父さんから聞いた。大変なことになってるみたいだねぇ」
そういう割に楽観的な笑顔を絶やさない少年は、続けた。
「燎一族の長、
小幸と靖央が共に住むこの
だが、土地を治める一族が余計な厄介事を起こす理由など無い筈だ。
振り返り、視線で訊ねる小幸に、靖央はかぶりを振った。
「細かい事情までは知らないよ。ただ、燎の一族は統治と支配をはき違えているんじゃないかって、お父さんは言ってた」
「聡明な賢君と謳われるあの燎祗様が? まさかそんなこと」
「ま、僕たちには関係の無いことだけどねぇ」
からりと笑って見せた靖央は、本当に余所の動乱には興味が無いようであった。
何とも子供っぽいが、小幸には無い楽観さを持つ彼の性格が、少しばかり羨ましくなる。
靖央に背を向け、装束の帯を解きつつ、少し明るい声音で言った。
「……ねぇ、少し散歩に行きましょうか。今夜はとても月が綺麗だから」
神儒舞の衣装を脱ぎ捨て、その下の眩い肌が襦袢越しに露わになると、再び少年は焦ったように視線を逸らした。
相変わらずの様子に、小幸は思わず笑う。
燦然と艶めく少女の微笑みは、夜空より降る月光に映えて美しく煌めいた。
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