艶冶なり
夢を見るのが嫌いだった。
深い闇。
底の見えない暗闇が、静かに自分を覆い尽くす。
幼い頃より見続けてきた孤独の夢。
この果て無き孤を、母はいつもこう形容していた。
『それは神様が見ている光景。どんなときも独りでいるからこそ、神様は私達人間に情を乞うの。そしてその情に応えるのが、私たち神巫――――神の側女よ』
それが本当なら、どれだけ残酷だろう。
この孤絶は、一人の少女が到底埋められる規模を超えている。
それでも尚、神巫は健気に神へ寄り添わねばならない。それが定めだ。
――故に神々は、熱を灯してくれる側女に、己が神秘を分け与えたのかも知れない。
小幸が自分の力に気付いたのは、齢十の頃。衛生の屋敷にやって来て三年が経った時だった。
ひたすらに純粋に。ひたすらに清潔に。
そうして割れ物を扱うように育てられてきた彼女は、幼いながらに神力の破片をその身に宿した。
人でありながら、人の領分を越えた力。
小幸はだが、それを恐れた。
神が無垢なる少女に神秘を授けたのは、共に添う女を、出来るだけ己と近しい存在にする為だ。
故に神秘を使えば、それだけ自分は人より遠ざかる。
故に少女は、滅多に己の神力を使おうとしなかった。
だが時折、自分の意識とは無関係に『それ』が顕現する時がある。
少女の身体が危険に晒された時、まるで神が聖なる巫女を護るかのように。
表面化した神の意識は、小幸の意思に関係無く、その力を振るうのだ――――。
◆ ◇ ◆ ◇
凍て付くような緊張感が、音も無く場を支配する。
何が起きているのか理解出来ていない盗賊たちも、その空気の変化を感じ取ったのだろう。鴛花に刃を向けていた二人は揃って身を震わせた。
「なん、だ……?」
男の視線が、小幸のそれと交錯する。
血よりも深い、鮮烈な赤に染まる双眸は、見た者の意識を縫い付ける絶対の引力を持っていた。
背中に垂らされた黒髪は風も無いのに靡き、月の光を吸収して燐光を纏う。
表情の一切を失った貌は、能面のように無感情でありながら、ある種の神々しささえ感じさせた。
いつもの毅然とした振る舞いを貫く小幸とは、根底から違う。住まう領域の一線を超えた『何か』が、そこには佇んでいた。
「お止め下さい」
言が紡がれる。
普段の彼女とは違う、鈴の音の如き澄んだ無垢な声音。
発せられた神巫の息に、男たちは思わず顔を引き攣らせた。
「その女人やわたくしの身体を傷付けようものなら、神の呪があなた達の身を蝕みましょう。決して解けぬ無間地獄を愉しむ気概がないのであれば……」
少女の五指が、ゆったりと男たちを捉える。傷一つない白魚のような指の先へ、次第に光が集約する。
神が巫たる少女に授けたとされる、神秘の力。その顕在に、二人の賊は慄いたように硬直した。
重さを感じない足取りで小幸は地を踏む。
「恐れなさい、わたくしを」
愛らしい声が、だが見据えられた者の意識を底から縫い付ける。
「そして侘び、膝をつきなさい。この身体は、あなた達のような者が下劣に弄んで良い代物ではございません」
「……お前は、一体何だ」
「御覧の通り」
男の問い掛けに、神の意識を乗せた小雪は着物の袖をひらりと摘み、あどけなく笑った。
「わたくしは神の側女であり、依代。彼岸世の民に好かれるため、誰よりも純真で無垢なる心根を持つ巫女でございます」
澄んでけぶる紅の双眸が、相対する二人の男の視線を釘付けにする。目を逸らそうと試みるも、決してそれを許さぬ無形の圧が彼等の意思を束縛する。
最初に小幸が支配下に置いた夜盗同様、二人の全身が金縛りにあったかのように固まった。
――人はそれを、恐怖と呼ぶのだろう。
少女の胸の前に白い光球が現れる。それらは蛍火のように儚げでありながら、夜空に浮かぶ月のようでもあった。
「如何なさいました? その刀を構えていると言うことは、まだわたくし達を狙う意思がおありで?」
「い、や……」
少女が愛らしく首を傾げる。
けれどそれすらも男にとっては恐怖を誘われるのか、蛮刀を握る腕を下ろそうとして、だが意識を支配されているが故に身動きが取れないようであった。
細い指が、光球の一つを弾く。
緩やかに空を流れる白光は、やがて男の眼前にまで迫るやいなや飛散し、彼の顔を覆っていた黒の紗布を取り払った。
露になった素顔を見て、小幸は言う。
「……少なくともあなた、燎一族の者ではありませんね」
発せられた言葉に、男は瞠目する。
「近迦を統治する燎の一族は、神に従わぬが故に罪咎を負わされた、謂わば異国の民。その頂点に君臨する燎̪祗さまに至っては、
「ッ……!」
「近迦の者に化けて悪行三昧とは、とても良い性格をしていますね」
舞うように歩む少女は、そのまま男に寄り添い、しなやかな指を彼の顎に触れさせる。たったそれだけの動作で、男の意識は決して逃れられぬ不可視の糸に絡め捕られた。
皮膚の上を滑る、白魚のように細く繊細な指。
穢れを知らぬ少女のようでありながら、男を誘う女の仕草。
人のそれではない鮮紅の瞳には、男に一切の発言権を許さない威があった。
「このまま脅しを重ねて吐かせるのも良いでしょうけれど、そのような無粋は好きません。……鴛花さま」
「はい」
「後の処置はお任せしても宜しいでしょうか」
「仰せのままに」
傍で控えていた彼女が、小幸に対して恭しく頭を垂れる。
その様子に頷いた少女は、ふと空を見上げ、そこに広がる夜の帳を楽しげに眺めた。
「――――もうすぐ月が、満ちる」
湛えられた笑みは、少女が浮かべるにはあまりにも艶めいていて。
けれど何処か、儚さの中に悲壮な色を含んでいた。
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