寵愛は月に映え
神との間に交わした誓約があるとすれば、それは偽り無き人の情だ。
幼い頃、そう母によく聞かされた。
古くに於いて願いを乞い、神々を顕現させた王は誠実を絵に描いたような人柄であったと言う。
口にする言葉に虚偽は無く、振る舞う挙措に傲慢は無かった。だからこそ神々もまた、彼の願いを素直に聞き届けたのだろう。尤も、そこに弱者を慮る同情の念が皆無だったかと言われれば、首を傾げる話ではあるが。
とは言え、まるで子守唄のように何度も告げられてきた母の言葉があったからこそ、自分は今の立場を粛々と、誠実に、受け止める事が出来ているのだ――。
一七歳を迎えたばかりの
◆ ◇ ◆ ◇
屋敷の離れに設けられた個人の浴室で、少女は湯船に浸かりながら深い思案に耽っていた。
木造の浴槽を満たすお湯が彼女の華奢な躰に熱を宿す。程よく紅潮した小幸は、湯の中に垂れて揺蕩う自身の黒髪を持ち上げ、後頭部で一つに結わえる。
そうしてまた、天井を見上げて溜息を零すのである。
ぴんと伸ばしていた肢を折り曲げ膝を抱えると、浴槽の傍に取り付けられた鏡面に顔を向けた。
蒸気によって微かに曇るそれに、何処か怜悧な色を持つ貌が写り込む。
普段は血の気の薄い色白の肌に水滴が張り付き、やがて滑らかに落ちていく。
多くの者が褒めて止まない端麗な顔立ちは、けれど今は微かな影を差していた。
そのことに気が付いた少女は、我に返り、おもむろに自分の頬を両手で叩く。
「……ダメよ。こんなみっともない姿、お母様に笑われてしまうわ」
自らを戒めるように、そう囁く。
ふぅ、と一度息を吐き、湯船から勢い良く立ち上がると、一糸纏わぬ透き通るような肢体が露わになる。そのまま浴槽を出て脱衣所で薄い襦袢を羽織り、二階の自室へと戻る。
背中に下ろされた長い黒髪から水が滴り落ちるが、気にも留めない。この程度、恐らく彼女が所用で部屋を空ければ勝手に拭かれてしまうのだから。
髪の水気を吸い取っていると、唐突に部屋の戸が控えめに叩かれた。
「小幸様、
「……分かりました。すぐに向かいます」
戸を隔てた廊下より聞こえてきたのは、屋敷に仕える下女の声だった。
個性としての感情を全て押し殺したような静かな呼びかけに、小幸は沈痛な面持ちで頷く。そして全身の水滴を拭いた後に、部屋の隅に置かれた衣装箪笥から薄青を基調にした着物を取り出す。
彼女の為に用意されているそれは、普通に生きていては着る事も許されないような上質なものだ。
羽織っていた襦袢を脱ぎ、下着を身に着けた躰の上に着物を纏う。
黒灰に染まる帯を巻き、手慣れた様子で引き結ぶ。最後に未だ微かに濡れた黒髪を摘み、後頭部に簪で結わえ上げた。
くるりと身体の向きを反転させ、姿鏡で己の様を確認する。
化粧は慣れていない為、頬や唇に紅は施していないものの、それでも充分に可憐な貌。ほっそりとしたしなやかに伸びる肢体。外から差し込む月光を受けて淡い燐光を纏う黒髪。
そのどれもが、単なる人間にとっては思わず意識の主格を奪われてしまうほど神秘に満ちたものであった。
――けれどそれも当然か、と小幸は己の姿に苦笑を送った。
彼女という存在は純粋かつ清潔でなければならない。その言葉に縛られた周囲の者達から、小幸は異常なほど大切に育てられてきた。
そこにあるのが親愛から来る情であれば彼女もまた喜んでその境遇を受け入れたかも知れないが、生憎と、少女に向けられるものはそんな明るいものではない。
尤も、今の環境にもとうに慣れた。
部屋を出て夕闇に揺蕩う月雲を見上げる。
夜の帳が下ろされたハワグに降り注ぐ月光は、神の寵愛に守られた街並みを、どうしようもなく綺麗に照らし出していた。
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