神の巫
離れから繋ぐ長い渡り廊下を音も無く歩けば、やがて瀟洒な意匠を施した障子の前に辿り着く。
両側に控えた下女が滑らかな動作で開けると、そこには大人が一〇〇人居ても余りあるほどの広大な広間があった。
向かって奥側の壁は中庭に面しており、天井付近に設けられた窓枠からは燦然と輝く月を見る事が出来る。
部屋を貫くように置かれた長い座卓の上には、絢爛豪華な料理が所狭しと並べられ、鮮やかな彩りを見せていた。
その座卓の最奥たる位置に腰を下ろす、一人の男性。
濃緑の着物に身を包む長身の彼は、部屋に入って来た小幸を視界に収めるなり、静かに口を開く。
「早く座りなさい」
低く穏やかな、それでいて人の意識を縛り付ける強制力のある、そんな声。
背く事を許さない圧を纏う言葉に、小幸は数瞬、肩を震わせ、やがてゆっくりと部屋に踏み入る。
一切の音が途絶されたかの如き静謐の間を横切り、男性と斜向かいの位置に座った。
ひたすらに沈黙を貫く小幸に、男は暫し、細めた視線を注いだ。
「髪が濡れているな。沐浴でもしていたのか」
「はい」
「そのままだと風邪を引いてしまうだろう。後で下女に乾かしてもらいなさい」
「……かしこまりました、衛正様」
彼の前で、品を欠く行為をしてはならない。
昔からそう躾けられてきた小幸は、感情を殺したように、淑やかに言を紡ぐ。
その視線は、決して男――衛正のそれと合う事はない。
「さぁ、食事にしよう。今日もお前の為に沢山用意して貰ったのだからな」
そう言って濃緑の着物を纏う衛正は卓上に並ぶ数々の料理に目線を落とした。
小幸もまた目の前の品々に目を向けたところで、ふと、いつもなら正面で同じように座す女性の姿が無いことに気付く。
「……
「あぁ。頼んでいた調べ物が長引いているらしく、先に食べておいて構わないと言っていた。なに、お前が気にするようなことではない」
これ以上追及はするなと言う意味も込めて話を打ち切った衛生が、卓上の料理を食べ始める。
屋敷の主である彼がそう言うのであれば、小幸が余計な口を挟む余地など無い。
後を引く思いに駆られながら、彼女もまた、用意された豪華な料理に手を付ける。
衛正と二人きりと言う状況に酷く緊張してしまうが、料理そのものは非常に美味しかった。
屋敷に使える下女たちが手間暇掛けて作ってくれたものなのだと思うと、小幸は自然と、感謝の念を抱いていた。
「――もうすぐハワグに、神喚の夜がやって来る」
黙々と食事を進めていた最中、衛正がそのように言った。
「この機を逃がせば、次はおおよそ六十年後になる。失敗は出来ん。お前の中に、全てを背負う覚悟は変わらず在るか」
告げられた言葉に、けれど小幸は俯くだけで返事をしなかった。
窓より降り注ぐ月光が、少女の貌に浮かぶ
憂いと苦痛を堪えるように薄く顔を顰める小幸へと、衛正は構わず続けた。
「《
「……心得て、おります」
か細い声が、薄い唇から漏れ出る。
あらゆる情と欲に蓋をした平淡な声音に、けれど衛正は気付いていないかのように喋りを止めない。
小幸の箸を持つ手はいつしか止まり、硬直したように静かに座すだけだった。
「時期が近付いているせいか、北の街で何やら不穏な動きが見られているらしい。恐らく
神聖皇国ハワグは世襲君主制を採用しており、おおよそ半世紀に一度、皇位継承の儀が執り行われる。
丁度ふた月ほど前に先代が退去し、新たな皇帝が即位したばかりであった。
当然、北の波乱にはその影響も含まれているのだろうが、衛正にとっては些事に過ぎなかった。
「ただまぁ、念のため無闇な外出は控えるように」
「……かしこまりました」
「神に見初められるのは、どこまでも純粋かつ清潔な少女だけだ。余計な行動に及び、外界から穢れを貰う事だけは避けなければならない」
――ハワグの民は、何よりも神の寵愛を欲する。
神秘なる恩恵を賜る為に気の遠くなるような歳月を黙して待ち、数万に及ぶ星の輝きを正確に詠み、祈りを捧げるべく額を地に擦り続ける。
そして最後の儀として、世俗に塗れていない無垢なる少女《
「全ては、この国に恒久の平和をもたらした神々を呼び降ろす為に。彼らの奇跡と加護を得ることだけを目的に、私は幼い頃よりお前を育ててきた。……自身が背負う宿命と責任の重さを、決して忘れるな」
この神聖皇国ハワグに、かつて二〇もの神が降臨した。
神々を呼び寄せた張本人である当時の皇帝は、戦乱に呑まれかけていた自国を救うべく、天へと祈った。
だが神は招聘に応じず、血迷った彼は大事な一人娘を供物として捧げたと言う。
世の穢れを知らなかった無垢な少女は神に見初められ、その見返りとして、
その伝承は、今なお鮮明に語り継がれている。
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