第20話 日の本一の兵(3)
少しずつ肌寒い日が多くなってきた。
眼下に広がるすすきの色が、季節の移り変わりを教えてくれる。
砦の屋根で烏が鳴いた。
ひとつ、またひとつ。
嫌な鳴き声だ。まるで死地に誘う遣いの様にこちらを見ている。烏と目があった気がして、僕は慌てて視線を逸した。
今から戦が起こることを、烏は知っているのだろうか?
伝令の話では、徳川軍がどんどん膨れ上がっているらしい。
最初から籠城などせず、信繁の策通りに、まずは出撃し徳川軍と西の大名たちの連携を断ち切った方が良かったのではないかと、今さながらに思った。
一陣の風が、急拵えの空堀を通り過ぎる。風で舞い上がった埃が僕の前で、旋風となり、程なくして消えた。
「甚八、今日も頼んだぞ。」
柵に作られた見張り台に信繁がやってきた。
「いつも通りにやれば良い。死ぬなよ。」
肩に置かれた手は力強く、このような状況に於いても僕に安心を届けてくれた。
「出陣だ!準備しろ!相手は数だけ多い雑魚どもだ、一蹴するぞ!」
僕は精一杯の虚勢を含んだ声で、真田軍に激を飛ばす。
六文銭を描いた羽織。
鹿の角を飾った兜。
赤く染め上げた甲冑。
十文字槍。
これを身に着けた瞬間から、僕は真田幸村となる。
「門を開け!」
まずは、正面にいる前田利常軍を壊滅するのが僕の仕事だ。
馬が嘶いた。
甲冑が擦れ、武具がぶつかる音が、戦へ向かうのだと実感させる。
手綱を握る小手の中は汗でびっしょりだ。
「甚八様。」
騎馬隊のひとりが声をかけてきた。
「あと一刻ほどで、前田利常軍が見えると伝令から知らせがきました。」
とうとう来たか。
平静を装うため、僕は大きく息を吐いた。
「作戦は皆に伝えてあるな。」
僕は声が裏返らないように注意して、話しかけてきた騎馬兵に問いかけた。
「抜かり無く。」
恭しく答える騎馬兵。
僕はまっすぐ前を向いて馬の歩を進めた。
さっきから、ひっきりなしに足が震えている。武者震いと強がりたいが、そう思えるには恐怖が心を支配しすぎている。
「見えました。前田軍です。」
目眩がしそうなほどの兵力差だった。これを本当に撃つことができるのか?
さっきから自問自答を繰り返している。
それでも、やるしかないんだ!
自軍が浮足立つ前に、僕は自分を奮い立たせた。
篠山から見る前田軍は、伝令の情報通りまだ堀を掘っている最中だ。
「作戦に移行する。」
僕の号令と同時に、鉄砲隊が火縄銃に弾と火薬を詰め始めた。
「撃ち方用意。」
茂みの中、一列に並んだ鉄砲隊が前田軍に狙いを定める。
「撃て!」
次々と前田軍に弾が撃ち込まれる。
堀を掘る作業にあたっていた前田軍の兵士は混乱し、成すすべも無くバタバタと倒れていった。
「何事だ!」
天幕から、ひとりの武将が出てきた。
あれが先方を言い渡されたる本多政重か・・・。
「あの武将を狙え!」
僕はひとりの兵士にそう指示を出した。
「しかし甚八様、距離が遠すぎます。」
そんな事は百も承知だ。
「いいから撃て!」
放たれた銃弾は、政重の前方数メートルの地面に着弾した。
政重と目が合った。
「朱揃えの甲冑。真田信繁かっ!」
予定通り、政重が僕を見つけた。
「騎馬隊、準備!」
僕も急いで、馬に跨がる!
「突撃!」
篠山を一気に駆け下りる騎馬隊。これからは時間が勝負だ。
前田軍の空堀を飛び越え、陣に突入し、僕は必死に槍を振った。
決して槍を上手く扱える訳ではないが、朱揃えの格好と混乱で、前田軍の目には鬼神に見えた事だろう。
「逃げるな!戦うんだ!」
政重が指示を出すが、従う者はいない。武器も持たない兵に戦えと言っても、従う者などいやしない。
ひとり、またひとりと前田軍の兵士が倒れていく。
「甚八様、頃合いかと。」
徐々に武装した兵士が集まってきたのを確認すると、僕は撤退の指示を出した。
「くそっ!追え、追うんだ!」
怒りに我を忘れた政重が、追撃の指示を出す。これも信繁の予想通り。
前田軍の半数がが篠山を通り過ぎた頃、篠山に残してきた真田軍の鉄砲隊が、前田軍の騎馬隊を狙い撃つ。
後方から聞こえる銃声と悲鳴。
政重は一度振り返るが、ここで退却する訳にはいかない。
「くそっ!真田信繁を討つんだ!」
躍起になって馬の速度を上げる政重。前田騎馬隊が急いで利常を追いかける。
真田丸が見えた。
砦の上部に見慣れた武将が立っている。
六文銭を描いた羽織。
鹿の角を飾った兜。
赤く染め上げた甲冑。
十文字槍。
真田信繁、その人だ。
「甚八、良くやった。」
信繁が十文字槍を前田軍に向かって振り下ろした。
同時に聞こえる無数の銃声。
「撃て、撃て!銃身が焼けるまで打ち尽くすんだ!」
真田丸から放たれる銃弾は途切れることを知らなかった。
「退却だ!退却するんだ!」
悲鳴のような政重の命令が辺りに響いた。
真田丸の城門を潜り、僕は鹿の角を飾った兜を脱いだ。
頭も、背中も、掌でさえ汗でぐっしょりと濡れていた。
全身を襲う倦怠感がひどかった。
こんなに疲労を感じたことは、今までの人生で初めてだった。
「甚八、良くやってくれた。」
信繁が笑顔で迎えてくれた。
「我が軍は大勝。真田丸の初陣は輝かしいものとなった。」
信繁の言葉に真田軍は活気づき、あちらこちらで信繁を称える声が聞こえてきた。
「信繁様、味方の情勢は?」
話に水を差すようで悪いと思ったが、聞いておかなければならない。
「やはり隠せぬな。味方の軍はことごとくが惨敗。出撃した軍の殆どが大阪城に立て籠もっている。」
やはり・・・。
圧倒的な戦力差だ。
真田軍だけ勝てば良い。そんな甘い物ではないのだ。
木枯らしが吹き荒れていた。
見上げれば、灰色の空が広がっている。
荒野にはいくつもの死体が転がり、合戦の激しさを物語っていた。
豊臣軍が負けた。
真田軍の士気は高いが、こればかりはどうしようもない事実だ。
徳川主導で締結された和平によって、大坂城は本丸を残した堀を埋め立てられ、真田丸も取り壊される事となった。
「信繁様、真田信之様から使者が来ています。」
しばらくして、信繁に徳川軍の信之から使者が訪ねてきた。
「兄上から?通してくれ。」
ちょうど天幕にいた僕も一緒に、使者の要件を聞くことになった。
「信繁様、ご無沙汰しております。」
使者は信之に以前から仕えていた者なのか、信繁の事を知っている様子だ。
「兄上からの書状には何と?」
信繁が信之からの書状を受け取り、少しだけ笑ったように見えたのは、僕だけだろうか。
書状には『信濃一国』を条件に寝返るように書かれていた。
冬の陣での信繁の活躍を家康が脅威に感じたからなのかは分からないが、敗戦の将に呈示するには過分な条件だ。
「ありがたい話ですが、兄上には・・・。」
書状から目を離し、信繁が首を横に振る。
「お言葉ですが、信繁様。豊臣方は既に士気無く、敗戦は必至。ならば!」
使者の言葉を手で制する信繁。
「豊臣方についたのは、損得だけを考えた訳ではない。この信繁、既に覚悟は決まっているのだ。」
使者はこれ以上は何も言えずに、天幕を後にした。
これが真田幸村だ。
僕の知っている、戦国一の将。
何と潔く、何と義に厚い漢だろうか。
現代でも人気があるのが納得できる。
何故たが目頭が熱くなるのを感じた僕は、涙が流れそうになるのを上を向き必死に堪えた。
史実というのは、本当に変えられないのだろうか。
例えば、
誰かが結果を知っていて、
誰かが別の方向に導いて、
誰かが身代わりになって、
僕が・・・。
考えて首を横に振った。
何を考えているんだ。自分が犠牲になるとかあり得ない。
僕はこの戦が終わったら、どこかでのんびり暮らすんだ。
それに、ここで徳川軍が勝たなかったらどうなる。
江戸幕府が開かれず、鎖国・明治維新も無くなるかもしれない。
現代社会も変わるだろう。
そんな大それたこと、誰もしてはいけないんだ。
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