第13話 武士の子に生まれて(4)

 葛籠から出てきたのは、脇差が2本、白装束、そして折りたたまれた和紙に包まれた書状。

 多分あれが奉行所からの委託状だ。

 江戸時代の殺人は基本的には認められず、幕府や藩によって罰せられる。

 唯一、罪人が藩外に逃げたりして行方不明となり、公権力による処罰が難しい場合に限り、血縁者による敵討ちが認められている。

「名前は、永倉正次。」

 無言を貫いていたりつが口を開いた。

「正太は小さかったから、覚えてないかもしれないけど。私ははっきり覚えている。」

 風呂敷を包むりつの手に、力が入るのが分かる。

「永倉は私の目の前で、父と母を・・・。」

 りつの肩が震えている。

 かける言葉が思い浮かばなかった。

 姉と言ってもまだ14歳の少女だ。幼い弟を連れ、どんなに苦労したことだろう。

 きっと敵討ちだけを目標に今まで頑張ってきたのだ。

「これは正太のだよ。自分の荷物くらい自分で持ちな。」

 振り向いたりつが、無造作に風呂敷を僕に渡した。

 りつの気持ちが分からない訳ではない。

 でも、それでも僕は・・・。

「姉ちゃん、僕は敵討ちなんか・・・。」

 そう言いかけた僕の左頬に、弾けたような痛みを感じた。

 一瞬、何が起こったか理解できなかった。

 りつの目から涙が流れる。

 あぁ、そうか。叩かれたんだ。

「正太がそう思うなら付いてこなくてもいい。私だけでも両親の無念を晴らす。」

 振り返り、部屋を出ていくりつ。

「ね、姉ちゃん・・・。」

 今更、どう声をかければいいと言うのだ。

 敵討ちだぞ。

 大人の侍相手だ、成功する訳がない。

 敵討ちなんて忘れてしまって、ここで商売をやって暮らしていけば良いじゃないか?

 頼りになる番頭。

 優しい若旦那。

 それに、ふみだっている。


 ――姉ちゃん、敵討ちだなんてバカバカしいことやめてさ、皆で暮らそうよ。

 ――なあ、姉ちゃん。


 品川宿、川崎宿、神奈川宿を通り、保土ヶ谷宿まであと少し。

 一週間の強行軍。僕たちはほとんど無言で歩き続けた。

 草履が擦れ、足のあちこちから血が滲み、足袋を赤く染めていた。

 それでも僕たちは歩き続けた。

 自分が何のために歩いているかなんて、もうとっくに分からなくなっていた。

 僕は結局、りつに付いてきた。

 覚悟を決めたとか、そんな格好良い理由ではない。自分では何も決められなかっただけだった。

 ただ流されただけ。

 そう、ただ流されただけだった。


 「終わったら帰っておいで。」

 見送ってくれた番頭の言葉が嬉しかった。

 結局、ふみとは何の言葉も交わすことはできなかった。若旦那の後ろで、何か言いたそうな表情で見送っている、ふみの表情だけがやけに脳裏に焼き付いていた。

 これから、どうなってしまうのだろう。

 本当に敵討ちなんてやる必要あるのか?

 今更ながら、そんな思いがどんどん大きくなっていくのを感じる。

 永倉正次。

 一体、どんな奴だろうか。

 出会わなければいいのにと、願わずにはいられない。

 そうだ、出会わなければ良いんだ。この広い日本で出会う可能性のほうが少ない。

 そうすれば、また問屋での日常に戻ることができるじゃないか。

 戻ったら、もっと頑張って仕事をしよう。

 早起きして、若旦那の言うことをしっかり守ろう。

 ふみともたくさん遊ぼう。

 幸せに、なるんだ。

「正太。」

 りつが立ち止まった。

「ね、姉ちゃん?」

 りつの背中から緊張が伝わってくる。

「いた、永倉正次だ。」

 そんな、まだ保土ヶ谷宿まで距離がある。

「行くよ、覚悟を決めな。」

 そう言うと、りつは荷物を投げ捨てて、通りの茶屋の店先に座っている男の前に躍り出た。

「我こそは渡邉座衛門が娘、りつ。」

 ちょ、ちょっと待ってよ。

 ま、まだ覚悟が・・・。

「お、同じく正太。」

 りつが脇差を抜く。

「永倉正次、父と母の仇を打たせて頂く。」

 座っていた侍、永倉正次は、りつをつまらなそうな表情で見て立ち上がった。

 無造作に結い上げた髷、顎に伸びた無精髭、着崩れた着物を気にする素振りを見せない態度。

 『浪人』

 正にその言葉がしっくりくるその風貌は、妖艶かつ尊大。

 僕の目には絶望そのものに映った。

「渡邉座衛門?知らねぇな。」

 永倉の言葉に、りつの表情が一層険しいものとなるのが分かる。

「ところで嬢ちゃん、後ろのいる小僧は何だ?敵討ちにしては覚悟が足りねぇようだが?」

 りつがこちらを振り向いた。

「正太・・・。」

 僕の表情を見て、表情を曇らせるりつ。

 やめてよ、そんな顔で僕を見ないでよ。

「覚悟もねぇのに、大それた事はやるもんじゃねぇな。」

 永倉がいやらしい笑みを浮かべた。

 僕たちの事を完全に蔑んでいる様子の永倉は、刀も抜かず、両手を広げて近寄ってきた。

 駄目だ。

 姉ちゃん、まだ間に合う。逃げよう。

「せっかく来たんだ。遊んでいこうぜ。」

 永倉が刀を振った。

 直後、汚れきったりつの白装束から胸元が露わになる。

 咄嗟に両手で胸を隠すりつ。

「貴様!」

 りつの反応に永倉は心底楽しそうだ。

 誰か、誰か助けて。

 周囲を見渡したが、皆遠巻きに見ているだけだった。

 それはそうだ。誰がこんな復讐に自分の命をかけて加勢するものか。

 誰もが自分の事で精一杯なのだ。

「なりふりなんか構ってたら、敵討ちなんてできねぇぞ。」

 永倉が切っ先をりつに向けながら言い放つ。

「正太・・・。」

 りつが呟いた。

「正太ごめん、私、覚悟なんかできていなかったんだ。」

 りつの肩が震えている。

「こんなことなら、正太を連れてこなければ良かった。」

 りつはそこまで言うと、胸元を隠していた両手で脇差を持ち替え、永倉に向かって走った。

「ごめんね、正太。あんたは逃げな。」

 永倉が大刀を構え直して、りつを迎え撃つ。

 ふたりの体がぶつかり合った。

 初夏の蝉の声がやけに耳の奥に響く。周囲の音がまるで川底で聞いているかのように、くぐもった音で耳に届いた。

 次の瞬間、まるでスローモーションのようにゆっくりと、そして力無くりつの膝が折れた。

 ありえない角度で曲がっていく、りつの頭。

 倒れながらこちらを向いたりつと目が合った。

 スローモーションのようだった時の流れが、元に戻った。

「姉ちゃーん!」

 声が枯れるほど大きな声で姉の名を叫ぶが、答えてくれる者はそこに居ない。

「くそっ、しくじった。」

 そう言った永倉の左脇腹からは血が流れていた。

 致命傷ではないが、りつが自分の命と引き換えに与えた傷だ。僕を逃がすために・・・。

 逃げなきゃ。

 その意志とは裏腹に、足に力が入らない。

 僕は無様に永倉に背を向けると、這うようにしてその場を後にする。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 遅々として進まない体。

「小僧、どこに行くんだ。」

 恐る恐る振り返ると、そこには脇腹の痛みに苦悶の表情を見せる永倉の姿があった。

「うわぁぁあぁああ!」

 手に持っていた脇差を必死に構えるが、永倉が横に振った大刀に難なく弾かれ、地面に落ちた。

「世の中、そんなに甘くねぇんだよ。」

 永倉が右手に持った大刀を大きく振りかぶり、そして振り下ろした。

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