第12話 武士の子に生まれて(3)
今は何時頃だろうか。
障子に当たる優しい月の光が、ほのかに室内を明るく照らす。
やけに大きく聞こえてくる虫の声が、付近の静寂を際立たせていた。
トイレに行くか。
朝まではまだまだ時間がありそうだ。残りの睡眠時間を有意義に過ごすために、この辺で用を足しておいた方が良いだろう。
僕はそう思い、ゆっくりと上体を起こした。
ガタガタガタガタ。
身を起こした僕に驚いたのか、押入れの前にいた人影が、急いで物をしまう。
手元が鋭く光った。
「姉ちゃん?」
暗闇の中を目を凝らして見てみると、押入れの葛籠に荷物をしまっているりつの姿があった。
「正太、どうしたの?まだ朝までは随分あるよ。」
「何だか目が覚めちゃったんだ。ちょっとトイレに行ってくるね。」
「と、といれ?」
しまった。思わずトイレと言ってしまった。
「か、厠だよ。寝る前に水を飲みすぎたのかな。ははは。」
何とか誤魔化して、僕は廊下に出た。
少しだけ肌寒かった。冬が近いのかもしれない。
「朧月夜か・・・。」
空を見上げて、僕はそう呟いた。
月にかかった薄い雲を介して、淡い光が地面を照らしている。
コオロギ・・・いや、この声は鈴虫か。
庭の至るところから、鈴虫の声が聞こえている。
川が近いからなのか、それともこの時代ではどこでもこうなのかは分からないが、庭一面から聞こえてくる虫の合唱は、まるでオーケストラのようだ。
また、その命の儚さ故か、美しいその声は、どこか悲しげな響きをも感じさせる。
「正太、蔵から1升用の醤油瓶を持ってきてくれ。」
「正太、それが終わったら、清兵衛んところ行って、支払いの催促してきな。」
「清兵衛さんところに行くなら、一緒に味噌を配達してきてくれるか。」
今日は特に忙しい。
さっきからひっきりなしにお客さんが来て、注文やら支払いやらをしていく。
店が儲かるのは良いけど、ここまで忙しいのは勘弁してもらいたい。
「ふう、一段落ついたか。」
番頭が筆と帳簿を置きながら言った。
「おう、正太。饅頭食うか?」
自分の肩を器用に揉みながら、番頭が声をかけてくる。
僕が返事をする前に、結界と呼ばれる番頭さんの定位置の下から、饅頭が2個出てきた。
番頭さんが、いたずらっ子のように笑う。
「いただきます。」
僕は結界の横に腰掛けると、番頭から饅頭を受け取り、大きな口を開けて頰張った。
「美味い!」
さすがに疲れていたのか、粒餡の詰まった饅頭はこの上なく美味かった。
番頭も、僕の表情を見て満足そうだ。
ふと、結界の中の帳簿に目が行った。
「何だ、正太。帳簿が気になるのか?これはもう少し勉強してから教えてやるからな。」
あれ?ここって違うんじゃ・・・。
「番頭さん、ここって違うんじゃない?」
僕は気になった場所を指差した。
27文の商品を150個仕入れてるんだから・・・単純な掛け算だよな。
そんな訳はないと、番頭がそろばんを弾く。
「確かに。違ってるな。」
頭を掻きながら、こちらを凝視する番頭。
何か悪いことでもしてしまったのだろうか?
「正太、お前そろばんも弾かねぇで分かったのか?」
「え?まぁ、単純な掛け算だから。」
「正太、お前どこで和算を習ったんだ?」
番頭が興奮気味言った。その声があまりに大きかったからか、周りにいた人たちが「何事か?」と集まってくる。
「正太、これは分かるか?」
別の計算を僕にやらせる番頭。
「すごい、そろばんより早いぞ。」
皆がさらに騒ぐものだから、とうとう問屋の人間のほとんどが集まってきてしまった。
次々に問題を出してくる店員たち。
ほとんどが単純な九九なので、問題を聞くと同時に答えを言うことができた。
「正太ちゃん、すごーい!」
いつの間に輪の中に入ってきたのか、僕のすぐ横でふみが感嘆の声を上げた。
「そ、そんな事は無いよ。覚えれば誰だって・・・。」
僕は鼻の頭を掻きながら答えた。
少しだけ恥ずかしかったが、悪い気分では無かった。
「正太とふみが一緒になってくれたら、この店も安泰だな。」
番頭さんが、豪快に笑いながら言った。
ふみと結婚?
ふと、ふみと目が合った。
真っ赤になって、目を逸らすふみ。
そうだな。そういう未来も幸せかもしれないな。僕は漠然とではあるが、ふみと結婚する未来を想像した。
優しいふみならば、良い奥さんになるだろう。
子供は何人ぐらい作ろうか。
男の子と女の子の両方が欲しいな。
僕はまだ見ぬ未来に思いを馳せる。
「りっちゃん!りっちゃん!」
突然そう言って店の入り口から転がり込んできたのは、問屋の古株のひとりである左衛門だった。
転がり込む。正にそう表現するのが最適な暖簾の潜り方をした左衛門は、あちらこちらの棚に足をぶつけながら、結界にできた人だかりを掻き分け、番頭とりつに対面した。
「どうした左衛門、やかましいぞ!」
番頭が息の上がっている左衛門を戒める。
「大変だ、町飛脚が来た。」
そう言って左衛門がりつに渡したのは、一通の手紙。
「りっちゃん、すまねぇ。問屋宛の便りかと思って、中身を見ちまった。」
渡された手紙をりつが目を通す。
「見つかったのですね。あいつが。」
あいつ?
「保土ヶ谷宿ですか。少し遠いですね。」
りつの表情は硬い。
「本当に行くのかい?良いじゃないか、ずっとここにいれば。」
何の話だ?僕だけが会話に置いていかれる。
「いえ。父の無念を、母の恨みを、この手で晴らすと決めていましたので。」
りつは手に持っていた手紙を握りしめた。
「正太!すぐに出るよ。この機会を逃したら次はいつになるか分からないからね。」
な、なんの事だ・・・無念、恨み。そんなの知らない。
正太の記憶にはそんな事は・・・。
その時、僕は気づいた・・・正太の記憶をほとんど知らない自分に。
正太が忘れようとしていたのか、それとも自分が気付かないようにしていたのかは分からないが、本当は気付いていたはずなんだ。
両親のいない不自然さに。
不自然に親切な店の人達に。
「正太ちゃん・・・。」
ふみが心配そうに、こちらの様子を伺っている。
「い、嫌だ・・・。」
数歩、後退る僕。
「正太!お前は誇り高き武士、渡邉座衛門の一人息子だよ!敵を討たなければならないんだよ!」
いつもは物静かなりつの表情は、般若のように歪んでいた。
知らないよ、そんなの。
ここに居たいんだ。
やっと見つけた居場所なんだ。
それを、僕から・・・奪わないでよ。
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