第11話 武士の子に生まれて(2)
障子から差し込む陽光。
庭で囀る小鳥の声。
少し遠くで聞こえる、威勢の良い道交う人々の声。
目を覚ました僕は、布団の上で足を投げ出して座り、幸福の意味を考えていた。
今日も配達で忙しいのだろう。
確か若旦那と一緒に、浅草の蕎麦屋や寿司屋を回るって言っていたな。
「さあ、頑張ろう。」
頑張ろう?
自分の行った言葉に、思わず苦笑する。
「頑張ろう」久しく言っていなかった言葉だ。
――どうでもいい。
――どうせ。
――意味が無い。
僕の使う頻度の高い言葉、ベストスリーだ。
そんな僕が「頑張ろう」だと?
何を言っているんだ。
頑張ることになんて、何の意味もない。
ほら出た、「意味がない」。
どうせ僕なんて何の価値もない人間なんだ。
今度は「どうせ」が出てきた。
「正太ちゃん、起きてる?」
遠慮がちに障子を開け、ふみちゃんが顔を出した。
「起きてるよ。ちょっと待ってて、今布団を片付けちゃうから。」
ふみの顔から笑顔が溢れた。
「分かった。朝ごはんできてるからねっ。」
そう言ったふみは、昨日と同様にトテトテと足音をさせながら去っていった。
「おう、正太。今日は早いじゃないか。」
座敷に上がった僕に声をかけてきたのは、若旦那だ。
若旦那の歳は20歳前後だろうか。それほど背は高くなく、肩幅の広い筋肉質な男で、首が短く、頭が肩にめり込んでしまいそうな体格が特徴的だ。
「今日は浅草に行くんでしょ?帰りに少し買い物できるかなぁ。」
僕は若旦那には話しかけた。
「仕事の終わり時間次第だな。何か欲しいものでもあるのか?」
「そういう訳じゃないけど、せっかく遠くに行くんだしさ。」
若旦那は、「自由にしろ」と僕に言うと、蔵の方へ向かって行った。
配達の準備に行ったのだろう。
僕も急いで食べて手伝おう。今の浅草はどんな所だろうか。今から少しだけ胸が踊った。
浅草は現代と同様に浅草寺を中心とした街並みだった。
雷門をくぐると左右に仲見世が立ち並び、客の呼び込みを行う店員の姿を見ることができる。
「雷門って、思ったより地道なんだな。」
浅草寺の入り口に建てられた、大門の前で僕は呟いた。
「雷門?何言ってんだ、これは風雷神門って言うんだ。それにな、地道とは違う。こういうのを「粋」のある作りってんだ。」
若旦那が僕の呟きに反応した。
「そんなことより早く行くぞ。仲見世を回るのは、配達の後だ。」
そう言って、若旦那が荷台を引き始める。僕も急いで押す腕に力を込めた。
仲見世を迂回して配達先である蕎麦屋に向かった。浅草に店を構えるだけあって、先日配達に行った清兵衛の店より、かなり大きかった。
「醤油と味噌を届けに来ました。」
若旦那が厨房に向かって声をかける。
「あいよっ、いつもご苦労さん。」
厨房から出てきた威勢のいい店主は、若旦那に勘定を払うと、忙しなく厨房に戻って行った。きっと今日も忙しくなるのであろう。
寿司屋、煎餅屋、飯屋と回り、僕らが風雷神門に戻ってきた時には、太陽は真上に昇っていた。
ちょうど昼飯時だ。
額から流れる汗を袖で無造作に拭う僕に、荷台に座った若旦那が握り飯を差し出した。
「ありがとう。」
僕はお礼を言ってから握り飯を受け取ると、若旦那の隣に腰掛け、口に頰張った。
少し塩辛いご飯の中に、練った梅が入っていた。少し物足りない感じがしたが、こんなご時世である。贅沢は言ってられない。
「仲見世では、何を買うんだ?」
急に若旦那が話しかけてきた。
「うーん、見てから決める。」
若旦那にはそう言ったが、本当は何を買うかはもう決めていた。しかし、それを口に出すのは少し気恥しかった。
何しろ、いつも世話になっているふみに何か買おうと思っているからだ。
どういう心境の変化からなのか、突然そう思い立ったのだ。以前の僕なら、異性にプレゼントを買おうなどと思いもしなかっただろう。
「じゃあ、行ってくる。」
若旦那にそう伝えると、僕は金子を持って走り出した。
何故だが心が浮足立っていた。
仲見世には、煎餅や麩菓子などの菓子類、雑貨、着物や半纏など、様々なものが売っていた。
どの店も威勢の良い掛け声を発し、盛んに呼び込みをしている。繁盛店となれば行列ができていた。
人混み溢れる仲見世の通りを抜け、僕は装飾屋の前で立ち止まった。
店舗には鮮やかな色のかんざしや、櫛が所狭しと並べられていた。
「おう、坊主。買ってってくれるのか?」
店主と思しき人が話しかけてきた。
かんざしか・・・おしゃれなふみには丁度良いかもしれない。
「どれも高いな。ちよっとまけてくれよ。」
かんざしの相場は分からないが、金子の中には百文ぐらいしか入っていない。
しかも、これは正太が必死になってためた金だ。無駄遣いをしては申し訳ない。
「しょうがないな。こっちに並んでるかんざしなら五十文で良いぞ。」
店主が指差したのは、店の端に並んでいるシンプルな作りのかんざしだった。
今の流行りは分からないが、あまり派手なものよりもこちらの方がふみに似合う気がした。
疲れているはずなのに、帰りの足取りはとても軽かった。
かんざしを見せたら、ふみはどんな顔をするだろうか。驚くだろうか、それとも素直に喜んでくれるだろうか、まさか怒られるってことはないと思うが。
ふみ表情を思い浮かべるだけで、顔がニヤけるのを止めることができなかった。
「さあ、ついたぞ。」
若旦那が荷台を下ろしながら言った。
「おかえりなさい。」
りつとふみ、そして旦那様が出迎えてくれた。
かんざしは、いつ渡そうか。
仕事中に渡すことはできないから、夜になるかな。それまでは部屋にでも置いておけば良いか。
「正太、ふみ、二人には夕方まで休みをやる。ちょっと息抜きしてこい。」
渡す算段をしていた僕に向かって、唐突に若旦那が声をかけてきた。
若旦那は声を上げて笑うと、僕の肩を叩いて、店に戻って行った。
いつの間に僕の意図を察したのだろうか?きっと、人の上に立つ人間は、色々と周りを見ているという事なのだろう。
ふみは訳がわからず、キョトンとしていたが、すぐに満面の笑顔になると、僕の手を取り走り出した。
ふみの行き先は分かっていた。
暇をもらうと、ふみは近くの河原に向かうのだ。きっと今の季節は春の花でいっぱいなのだろう。
店の前の道を真っ直ぐ進み、清兵衛の蕎麦屋を過ぎると、すぐに小川に突き当たる。
予想通り、河原は花でいっぱいだった。
白い花、黄色い花。
僕に草花の知識が無いのが少し残念であるが、楽しそうに遊んでいるふみを見ると、そんな事はどうでも良く思えた。
「はい、正太ちゃんに髪飾り。」
ふみが差し出してきたのは、よく見る花の王冠だった。黄色と白の花が散りばめられ、とても上手に作られている。
こんな時代から、花冠というものが存在していたのかと感心した。
「ふみちゃん、渡したいものがあるんだ。」
僕は意を決して、ふみに話しかけた。
小首を傾げてこちらを見るふみの仕草に、意図せず鼓動が早くなるのを感じた。
「これ。」
僕は、紙に包まれたかんざしを、無造作に差し出した。
「もっと気の利いた言葉を添えろよ」と思うが、今の僕にはこれが精一杯だった。
「何?」
ふみは不思議そうな顔をして、紙包みを受け取り、ゆっくりと中身を確認する。
「これって・・・。」
驚きと、戸惑いと、嬉しさと、その他色々な感情が入り混じった顔で、ふみは僕を見た。
「あ、あれだよ。ふみちゃんにはいつもお世話になってるから、お礼も兼ねて。」
恥ずかしい。
目が合わせられない。
「ありがとう。嬉しい。」
そう言うと、ふみはかんざしを髪に挿し、微笑んだ。
何故だか少し寂しげな笑顔が印象的だった。
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