第8話 尊皇攘夷(3)

 遊郭の一室に僕らのアジトは定着していた。

 不特定多数の人間が出入りし、皆自分の正体を明かそうとしない、非常に都合の良い場所だからだ。

「田所さん、どう・・・でした?」

 仲間の一人が、部屋に入ってきた田所に声をかけた。

 田所がゆっくりと首を振る。

「情勢はあまり芳しくない。」

 畳の上に胡座をかきながら田所が言った。

「朝廷も揉めている。」

 目を閉じ、天を仰ぐ田所。

 十秒、二十秒。

 いや、長く感じるだけで、実際にはとても短い時間だったのかもしれない。

 重苦しい沈黙だった。

 皆、言葉を挟めず、田所の次の言葉を待っていた。

「我々、急進派は窮地に立たされている。」

 田所の言葉を要約する――。

 弱体化した幕府を倒し、新たに強い朝廷を作ろうとしている我々尊皇攘夷派と、幕府と手を組み強い政府を作ろうとする薩摩・会津藩を中心とした武公合体派。

 朝廷内も尊皇攘夷派と武公合体派で意見が別れていたのであるが、この度、朝廷の保守派の者たちが薩摩・会津藩と手を結んだらしい。

 これにより長州藩は勢力を削がれ、公家の急進派とともに朝廷から遠ざける動きが表面化してきた。

「そんな事をしたら、幕府の悪政に後戻りじゃないですか?!」

 あちこちから不満の声が上がる。

「先見の目が無い者たちが、日本をまた悪くしていく。」

 誰かが言った。静かであるが、憎しみのこもった声だ。

「しかし、まだ手は残されている。」

 ここまで黙っていた松繁が声を上げた。

「詳しいことはここでは話せない。志がある者は、このあと俺に付いてきてほしい。」

 皆、顔を見合わせた。

 できることがあるなら、最後まで突き通したい。

 それが日本の未来につながると、信じているからだ。


「ここだ。」

 松繁に連れられてきたのは、京都三条にある一軒の旅館だった。

「宮部さん、桂さんはまだですか?」

 部屋に入った松繁は、まず奥に座っている男に声をかけた。

 堂々とした出で立ちから、ここに集まった志士たちのリーダーであろうことが推測できた。

「桂さんは一度ここに来たようだが、対馬藩邸に行ったようだ。お帰りがいつになるか分からないので、桂さんの帰りは待たずに説明を始める事となるだろう。」

 その後も数人の男たちが部屋に集まり、総勢20人程度となったところで、宮部と呼ばれた男が口を開いた。

「知っている者も多いと思うが、朝廷の保守派の者たちが幕府と手を組もうとしている。このままでは、我ら長州藩は逆賊の汚名を着せられてしまう。」

 宮部はそこで一旦息をつき、皆を見渡した。

「そこで、今夜御所への放火を行い、天皇を救い出す計画を立てた。」

 部屋に集まった一同がざわついた。

 どうやら初めて聞かされた者たちも多いようだ。斯く云う僕もその一人だ。

 しかし僕が衝撃を受けたのは、皆と違う事だったであろう。

 僕は知っている、この事件を。

「松繁さん、この旅館の名前は?」

 恐る恐る松繁に尋ねた。

「ここは、池田屋だが?」

 やっぱり!

 池田屋事件。今、正に池田屋事件が起きようとしているのだ。

 ヤバい!

 奴らが来るぞ!

 そう!新選組が!

「旦那!逃げてくだせぇ!」

 息咳切って走り込んできたのは、先程、僕たちを部屋に案内してくれた男だ。

「何事だ?!」

 宮部が男に問いかける。

 来てしまったんだ。新選組が。

「新選組が、来ました。」

 集まった志士たちが浮足立つのが分かる。

 階下から、悲鳴とも怒号ともとれる声が聞こえてきた。

 確か池田屋事件で乗り込んでくる新選組の隊士は、永倉新八、藤堂平助、沖田総司そして近藤勇の4名。

 日本史は数少ない得意分野だったから、それなりに知識はある。

 だからこそ分かってしまう。池田屋事件の全貌、そして絶望。

「作戦は中止だ!生きてこそ我々の志が成せる!」

 宮部はそう言うと、傍らに置いてあった日本刀を腰に差し、襖を開けた。

 勢いよく階段を駆け上がる数人分の足音。

「正二郎、落ち着け。俺の後ろにいれば大丈夫だ。」

 松繁が、僕の手を握りながら言った。

 手に血が通っていないと錯覚するほど、冷たくなっていた。指も痺れて動きが鈍い。

 廊下から、金属がぶつかり合う鋭い音が聞こえてくる。

 直後聞こえてくる、叫び声。

「ひっ、だ、誰かが死んだ?」

 僕の声は情けなく震えていた。

「新選組は数人だ!押返せ!」

 数人の志士が階段に向かって、走って行った。

「正二郎、今のうちに逃げるぞ。」

 松繁は反対側の襖を開け、裏口に向かった。慌てふためく他の客をかき分けながら。

「ここは通しませんよ。」

 前に立ちふさがったは、他の隊士と比べて明らかに線の細い男だった。

「沖田か。」

 沖田?まさか沖田総司。

 松繁が腰の大刀を抜く。

「松繁さんでしたっけ?覚悟は良いですか?」

 沖田が剣を中段に構え、腰を落とす。

 一気に空気が張り詰めた。さっきまでの優男の姿はすでに無く、そこにあるのは天才剣士沖田総司の姿だった。

 周りの喧騒が驚くぐらい遠くに聞こえた。ふたりを包む張り詰めた空気は、近くにいる僕さえも巻き込んでしまっているようだ。

 松繁が不利なことは、素人である僕が見ても明らかだった。

 自然体に構える沖田に対し、松繁の構えは肩に力が入り、ガチガチに緊張しているのが分かる。

「うぉぉぉ!」

 松繁が沖田に切りかかった。沖田の右の肩口から、左の腰に向かう袈裟斬りだ。

 切先ギリギリを見切って、少し下がっただけで刀を躱す沖田。

 次の瞬間、沖田の刀が松繁の首に深々と突き刺さっていた。

 傍から見ていた僕にも、全く見えなくなった。それほど速く、無駄のない動きだった。

 力なく倒れる松繁。

 僕は震える足を止めることはできなかった。

 無理もない。人が殺されるところを、初めて見たのだ。

「あなたも覚悟は良いですか?」

 沖田がこちらを振り返った。沖田の端正な顔立ちが、余計に恐怖を助長させた。

 一歩一歩、ゆっくりと、それでいて確実に沖田がこちらに歩を進める。

 もう駄目だ。

 僕はここで殺されるんだ。

 嫌だ。

 死にたくない。

 あと一歩ほどで、刀の間合いに入ってしまうだろう。

 覚悟を決めなければならないのか。

「ごほっ、ぐっ、ごほっ。」

 次の瞬間、沖田が急に咳き込んだ。

 それも尋常ではない激しさで。

「こ、こんなところで・・・。」

 口に当てた左手の指の間から、赤い液体が滲み出てきた。

 苦しそうに喘ぐ沖田。立っているのもやっとなのか、手にした大刀を床に立て、もたれかかるように立っている。

 そうか、沖田総司は結核だったという説は本当だったのか。

「沖田!大丈夫か?!」

 階段を駆け上がる一人の男が、沖田に声をかけた。

「永倉さんでしたか、大丈夫です。あと一人ぐらいなら斬れます。」

 沖田は無造作に口についた血を拭い、僕の方に向き直った。

「馬鹿を言うな!もうすぐ土方さん達も来る。今は引くんだ。」

 土方?土方歳三がここに来るのか?

 何とか今は均衡を保っている志士たちも、鬼と呼ばれる土方歳三が来たら一気に不利な攻勢となる事だろう。

 逃げるしかない。

 僕は沖田を背に、一目散に逃げ出した。松繁の事が気にならなかった訳では無いが、自分の命を守るためだ。仕方のない事だった。

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