第5話 降り注ぐ炎の中で(4)

 土手を降り、瓦礫の山の中を右足を引きずりながら進んだ。

 視界の中の至るところに存在する、昨日までは家であったであろう物から舞い上がる火の粉が、風に舞い僕の行く手を遮る。

 たまに漂ってくる肉の焼ける臭いが、僕の吐き気を誘い、胃液を逆流させた。

 足が重かった。

 近所の子たちと遊んでいる時は、羽のように軽かった両足が、今では鉛玉を括り付けられているように感じる。

 自宅があった場所に到着したときには既に日が落ちていた。

 夕刻から降り出した雨は、僕の肩を容赦なく濡らす。

「寒い・・・。」

 僕は雨から逃れるために、隣の家の焼け落ちた屋根の端に潜り込んだ。

 殆ど原型をとどめていないその屋根でも、ひとりの子供が雨宿りをするぐらいの大きさはあった。

 雨はどんどん強くなり、ついには土砂降りとなった。

 このまま振り続ければいい。

 降り続く雨が、家々に残る炎と共に僕自身を消し去ってしまってくれればいいのに。

 とても疲れていた。

 目を閉じて眠りに落ちるまで、それほど時間はかからなかった。


 屋根の間から差し込む朝日で目が覚めた。

 昨日から降り出した雨は、夜のうちに上がってしまったようだ。

 変な姿勢で眠ってしまったのだろう。腰と肩がひどく痛んだ。

 右足が痺れて感覚が無くなっていたからか、うまく立つことができない。傷の痛みは不思議とあまり感じなかった。

 それでも何とか立ち上がった僕は、屋根の下から這い出て、嫌味なほど眩しい朝日に目を細めた。

 家々を焼いていた炎はすっかり消え、変わりに真っ黒な炭と化した柱が不格好な墓標のように立ち並んでいた。

「これからどうすれば良いんだろう。」

 僕は瓦礫の上で、途方に暮れていた。

 頼みの綱の一郎は既に居ない。

 他に家族がいるかどうかも分からない状態だった。

「ボウズ、ひとりか?」

 話しかけてきたのは薄汚れた作業着のズボンを履き、ランニングシャツを着た、見すぼらしいおじさんだっだ。

 僕は黙って頷いた。

 嘘をついたところで、良いことがあるとは思えなかった。そもそも僕のようなガキをひとり騙して得をするような人間がいるとも思えない。

「腹、減っただろ、食え。」

 おじさんは、持っていたふたつの握り飯のうち、ひとつを僕に差し出した。

 握り飯を見て、急にお腹が鳴った。

 それはそうだ。昨日から何も食べていないのだ。

「昨日は大変だったな。」

 僕は黙って頷く。

「でも、もうすぐた。」

 おじさんの目には希望があった。

「もうすぐ大日本軍がアメリカをやっつけるからな。」

 何を言ってるんだ、この人は?

「ボウズ、零戦って知ってるか?世界最強の戦闘機だ。」

 おじさんが空を見上げる。きっとおじさんはここでは無い空を見ている。

「太平洋上じゃ、零戦がアメリカ軍の戦艦をどんどん沈めてるって話だ。」

 違うよおじさん!それは間違ってる。本当は・・・。

「それと戦艦武蔵、これが凄い!大日本軍の強さの象徴だ!さらに大和っていう戦艦も・・・。」

「違うよ!武蔵も大和も通用しない!みんな間違っている!」

 僕はおじさんの話を遮ると、勢いよく立ち上がって言った。

「アメリカはそんなに弱くない!」

 おじさんがびっくりした表情でこちらを見ている。

「零戦も、武蔵も大和も通用しない・・・日本は・・・負けるんだよ。」

 周りにいた人たちの視線が集まる。

 涙が出た。

 みんな知らないんだ。知らないで、ただ信じているんだ。

「何言ってるんだ。ボウズ、適当なことを言っちゃ・・・。」

「適当なことをなんかじゃない!この後、広島と長崎に原爆が落とされて、日本はっ!」

 右頬に痛みを感じた。

 殴られたと理解したのは、しばらくしてからだった。

「この非国民が!」

 さっきまで優しかったおじさんが、鬼のような形相で見下ろしていた。

「大日本軍が負けるはずない!負けるはずないんだ!」

 後半は、まるで自分に言い聞かせているかのように、おじさんが言った。

 おじさんの目から、一筋の涙が溢れた。

 おじさんは、その涙を隠すように振り返り、そのままどこかに行ってしまった。

 僕は理解した。

 みんな必死なんだ。

 信じることで、生きているんだ。


 夜になり、また昼が来て、また夜になった。

 悪い噂でも広まったのか。僕に話しかけてくる人はひとりもいなくなった。

 右足の傷の痛みは感じないが、膝の下ぐらいまで黒く変色していた。足先は氷のように冷たい。

 昨日から熱っぽい。

 呼吸が荒く顔は火照っているのに、全身の寒気と震えが止まらなかった。

 視界がぼやけてきた。

 全身に力が入らない。

「お腹空いた。」

 焼け落ちた柱にもたれかかりながら、僕は呟いた。

 目の前をおばさんが通り過ぎたが、僕を助けてなどしてはくれなかった。みんな、自分のことで手一杯なのだ。

 頭の中に霧がかかったようで、何も考えられなかった。

 横に目をやると、僕と同じくらいの子が横たわっていた。

 もっと生きたかっただろうに。

 この子は何の為に生きていたのか。

 答えなど出るはずもない。

 そんな事を考えられる事自体が幸せなことなのかもしれない。

 おじさんには悪いことをした。

 もう駄目だ。

 瞼が重い。

 視界が狭まってきた。

 寒い。

 絶対的にひとりだ。

 ・・・寂しい。

 ・・・・・・あぁ、死にたくな・・・。

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