第4話 降り注ぐ炎の中で(3)

 耳を突く爆発音。

 皮膚を焼く熱風。

 辺り一面の地面がめくれ上がるのではないかというほどの爆風の中、一郎は僕の手を引いて走った。

 下流の橋まではあと少しだ。

 目に砂が入って痛かったが、走る事をやめるわけにはいかない。それは生きることをやめる事と同等の意味を持つからだ。

 一郎の手は大きく、力強かった。

 4つしか変わらないはずの兄の手は、この世のどんなものよりも僕に安心感をもたらした。

 すぐ後ろで爆発音が鳴り響いた。

 上空の爆撃機は、僕たちふたりを狙っているのではないかと錯覚する程に執拗に爆弾を投下してくる。

「大丈夫だ。飛んでいる爆撃機からこっちが見えるはずはない。」

 そう言って、一郎が笑った。

 まるで、僕の心を読んでいるかのように。

「着いたぞ!もう大丈夫だ。」

 一郎は橋の袂にあった茣蓙を背負うと、そのまま僕に覆いかぶさった。

「大丈夫だから、じっとしていろ。」

 一郎の体重を感じる。見た目以上に軽いことが分かる

 B-29のプロペラ音が近づいてきた。同時に近くで起こる爆発音。

 神様!

 僕は初めて本気で神に祈った。

 神の名前など知らない。誰でも良かった。僕たちを助けてほしかった。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか?

 相変わらず僕は一郎の体重を感じていた。

 爆発音はずいぶん前からしなくなっていた。

 助かったのであろうか?

「兄ちゃん?」

 僕はそっと声をかけた。

 一郎からの返事はなかった。

「兄ちゃん。」

 僕はもう一度声をかけた。

 あぁ、そうか。

 一郎は死んだんだ。

 驚くほどすんなり、一郎の死を受け入れた自分に驚く。

 この時代、それほどまでに死は身近なものになっているということだろう。

 一郎の下から這い出る。かけてあった茣蓙はほとんど焼けて無くなっていた。

 僕は一郎を見た。

 背中から下半身にかけて黒く焦げ、所々皮膚がめくれて赤いものが見え隠れしていた。

 ずっと僕を守っていたのだろう。一郎のは、僕を抱きかかえるような形で事切れていた。

「兄ちゃん。」

 僕はもう一度声をかけた。

 一郎からの返事はない。

 こういう時は泣き叫べば良いのだろうか?まるで感情が固まってしまったかのように、何も感じなかった。

 ただ一筋の涙が右目から流れた。


 逃げ込んだ橋は殆どが焼け落ちていた。

 最新式の焼夷弾が投下されたのだ。仕方のないことだった。

 僕はほんの少しだけ残った、頭上に架かる橋を見上げた。

 不思議と僕たちの上の部分だけが焼け残っている。信心者ではない僕であっても、何らかの不思議な力に守られていたと思わずにはいられなかった。

 僕は動かなくなった一郎の体に一度手を合わすと、防空壕の方に歩き出した。

 もしかしたら何人か生き残っているかもしれない。

 防空壕に入れてもらえなかった事に対して、何も感じまいわけではないが、こんな時だ、誰も他人などに手を差し伸べることなどできやしない。

 歩く度に右足が痛んだが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。

 おぶってくれる一郎は亡くなったのだ。

 助けなど来ない。この後は自分で歩いていかなければならないのだ。

 防空壕から少し離れた土手にひとつの遺体があった。

 皮膚がボロボロに焼け焦げているため、確証は持てないが、多分僕たちに話しかけてきたおじいさんだろう。

 彼は何を考えてこの場に座っていたのだろうか?

 今となっては確かめる術はないが、どことなく生きることを放棄しているように見えた。

 何か彼を絶望に追いやってしまったのか?

 家族の死か?

 友人の死か?

 財産の喪失か?

 それとも、将来の悲観か?

 答えの出ない問答だけが、僕の頭をぐるぐると回っていた。

「誰か、いますか?」

 防空壕の入り口には誰もいない。

 最後まで押し問答をしていた男性は、防空壕に入れたのだろうか?

 防空壕の周りを見渡したが、男性の遺体は見当たらなかった。

 遺体が無いということは、防空壕に入れなかったとしても、きっとどこかに避難したのだろう。

 もっとも、焼夷弾の直撃を受ければ、遺体など跡形もなくなってしまうのであろうが。

「誰かいませんか?」

 僕は防空壕の中の様子を伺った。

 問いかけに反応するような気配はない。

 焼け落ちてしまったのか。こにあるはずの防空壕の扉は、どこにも見当たらなかった。

 暗い。

 灯りも無い狭い空間に、いったい何人の人がひしめき合っているのだろうか。

「うっ!」

 防空壕に入った僕は、内部に充満する肉の焼ける臭いに顔をしかめた。

 駄目だ。生きている人などいるはずがない。

 僕は直感的にそう思った。

 焼夷弾によって扉が壊された後の様子は、安易に予想できた。

 入り口から迫る炎。

 出口のない空間。

 ジワリジワリと蒸し焼きにされる体。

 まるで地獄絵図だ。

 熱と臭いにやられたのか、吐き気が止まらない。

 僕はフラフラと壁に寄りかかると、力なく座り込んだ。

 右手に何か硬いものがが当たる。

 大きめの石か何かだろうか。

 少し力を入れると、表面を覆っていたものがめくれ上がった。

 直後に感じるヌルリとした感触。

 誰かの頭だ。

「ひっ!」

 僕は吐き気をこらえながら、必死に防空壕の外に出た。下半身にうまく力が入らない。腰が抜けてしまったようだ。

 何とか防空壕から出た僕は、必死に堪えていた吐き気に耐えきれず、土手に向かって嘔吐してしまった。

 出てくるのは胃液だけだった。何しろ昨日から何も食べていないのだ。

 ここにいても助からない。家に戻ろう。

 そう思った僕は、一郎の亡骸の方をもう一度向き、手を合わせると、家の方に歩き出した。

 振り返らない、そう決めた。

 踏み出す度に右足が痛んだ。

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