第3話 降り注ぐ炎の中で(2)

「三郎、三郎。隅田川に着いたぞ。」

 一郎の声で目を開けると、隅田川の土手の上だった。

 かつて一面が草花で覆われてたであろう隅田川の河川敷は、焼け焦げた大地が広がり、所々硝煙が上がっていた。

 その変わり果てた姿に、思わず涙がこぼれる。僕はこの頃の隅田川の姿など知るはずも無いのに・・・。

「ひどい。」

 一郎も絶句していた。

 これが・・・戦争なのか。

「行こう。グズグズしていたら、また爆撃機がやってくる。」

 肩を落とし、目を伏せ、河川敷を歩きだす一郎。

 かける言葉が思い浮かばない。

 防空壕は河川敷を下流に10分ほど歩いた先にあった。

 土手の斜面に穴を掘っただけ。防空壕はそんな簡素なものだったが、大人がいるという事実は、子供二人で逃げてきた僕たちにとって大きな安心感を生んだ。

「三郎、行こう。」

 一郎の声は、先程よりも明るかった。一郎の気が晴れたとは思えないが、目の前の景色に希望が見えたのは事実なのだろう。

「兄ちゃん、そろそろ降りるよ。」

 右足の痛みは続いていたが、一郎にばかり負担をかけるわけにはいかない。

 僕は一郎の背中から降り、右足を地面に付いてみた。

 一郎お手製の包帯は、血が滲み真っ赤になっていたが、キツく巻いてあるからだろう、歩けないほどの痛みは感じなかった。

 もうすぐ防空壕にたどり着く。

 そうすれば、爆撃から逃れることができる。運が良ければ食べ物を分けてもらえるかもしれない。

 一郎と僕は土手の斜面を下った。

 さすがに坂道を下るときに踏ん張った右足には激痛が走ったが、そんなことは気にしなかった。

 もうすぐ、この地獄のような環境から逃れられるのだ。


 防空壕の外には数人の大人がいて、中の人間と何やら話していた。

 全ての人が着の身着のままで避難してきたらしく、食料を分けてもらえるような状況でない事は一目瞭然だった。

「三郎、大丈夫か?」

 一郎はかなり冷静に見えた。少なくとも此処に集まっている大人達より頼りになりそうだ。

「お前たち、どこから来たんだ。」

 土手に座り込んでる男が聞いてきた。

 話しかけてきたのは、初老の男性だった。

 白なのか、それとも灰色なのか、とにかく元の色が分からないぐらい薄汚れたシャツを着て、ヨレヨレのズボンを履いていた。

 スボンには所々焼けたような小さな穴空いていることから、この人も空襲の中を必死に逃げてきたのだろうと推測できる。

「5丁目だ。」

 一郎が答える。

「5丁目はどんな感じだ?」

「爆撃機が真上を通ったよ。一面焼け野原だ。」

 一郎の言葉に、ぼくの方が目頭が熱くなった。もう帰るべき家は無いのだ。

「助かった人はいそうだったか?」

 男の問に、一郎は答えなかった。

「そうか。どこも一緒か。」

 男は頭を垂れて、自分の両肩を強く抱いた。肩には爪が食い込んでいた。

 何と声をかければ良いのか、分からなかった。

 僕を含めここにいる人たち、いや日本の全国民が、自分のことで手一杯で慰めの言葉など持ち合わせていなかった。

「おい!入れないってどういう事だよ!」

 防空壕の前では、数人の男たちがもめている様子だった。

「何度も言うようだが、この防空壕はもういっぱいだ。他の所に行ってくれ。」

 ここからでは見えないが、防空壕に入る通路には数名の男がいて、新しく来た人たちを通せんぼしているようだ。

「入れないって・・・そんな!」

 一郎の顔が蒼白になった。

「三郎!ここにいてくれ。すぐに戻る。」

 そう言うと、一郎は防空壕の入口の方へ走っていった。

 足が痛い。

 緊張の糸が切れたのか、急に足が痛くなってきた。

 見ると、包帯は血でぐっしょりと濡れていた。どこかで包帯を巻き直さなければ、今度は貧血で倒れてしまいそうだ。

 僕は先ほど話しかけてきた初老の男の近くの土手に腰掛けた。殺伐とした空気の中、この男のそばが一番安全に思えたからだ。

 男は相変わらず頭を垂れている。とても話しかけられるような雰囲気ではない。誰か大切な人が亡くなったのかもしれない。

「弟が怪我をしているんだ。せめて弟だけでも入れてくれよ。子供一人ぐらい入るだろ?」

 一郎の声が聞こえてきた。

「ダメだ!この防空壕はもう一人だって入れない。他を探せ!」

 仕方ない事だとは分かっているが、何と無慈悲なことだろうか。今、ここにいる人たちの中で、自分以外の人の事を考えているのは一郎だけだった。

 全ての大人たちが、身勝手で理不尽で、そして醜悪だと思った。

 答えの出ない押し問答が続いていた。

 そうこうしていると、東の方面からプロペラの音が聞こえてきた。最初は羽音ほどの小さな音であったが、あっという間に大きくなり、自分たちの上空を通過していった。

「偵察機だ!」

 誰か叫んだ。

 叫び声がスイッチであったかのように、周りの大人たちが騒ぎ出す。

「おい!早く詰めろ!入れないじゃないか!」

 我先にと、大人たちが防空壕に詰め寄っる。強引に防空壕に入ろうとした一人の男に一郎が突き飛ばされたのが目に入った。

「来たぞ!B-29だ!」

 先ほどの偵察機とは打って変った、重たいプロペラ音がまっすぐこちらに近づいてきた。

 1、2、3・・・4、5。

 5機・・・さっきより多いぞ!

 B-29が散開する。1機がこちらに向かって、高度を下げてきた。

「来るぞ!逃げろーー!」

 爆撃機から投下された黒い粒は、僕たちの頭上のであっという間に大きくなり、雨のように降り注いだ。

 その後はもう見慣れた光景だった。

「三郎!こっちに来い!」

 一郎が僕の手を取り、隅田川の下流に走る。すぐ近くの橋の下に隠れるつもりなのだろう。

 僕は一度振り返る。

 爆音とともに、防空壕が炎に包まれた。そこにいた大人たちの姿が、炎の中に消えていく。

 少し離れたところに座っていた初老の男は頭を垂れたまま動かない。

 焼夷弾の炎は、容赦なく広がっていった。周りのもの全てを飲み込むかのように。

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