最終話

 僕の意識が戻ったのはその日の夜だった。目を覚ますと昔見た天井が広がっていた。

「じ、事務所?」僕はぼそっと呟くと、

「病院ですよ」と声が聞こえた。

 僕は声の方を見ようとするけれど体が動かない。

「無理しないでください」とその声の主は言った。その声は男性の声でそしてなんだか嫌な優しさがあった。

 声の主は言った。

「警察です」

 終わったと思った。自分は今後どうなるのだろうか、桐原はどうなるのだろうか。そんな思いが僕の頭の中を駆け巡る。

「今回はひどい事件に巻き込まれましたね」と警察官は言った。

「全治2ヶ月の大怪我。骨が何本か折れており、包帯でぐるぐる巻きにさせられた。しかもそれが実の父親でそうと知らずにあなたを犯し続けた」

 棘のある声だった。同情なんてしていない声だった。

「お父さんはこう言いました。『男娼ってのを買ったらあいつがきたんだ。息子だったなんて知らねぇよ』と」

 僕の喉はみるみると乾いていった。

「あなた、何歳でしたっけ?いや、わかっています。あなたが非常に厳しい状態に置かれていたと言うこと。そうせざるを得ない状況だったと言うこと。でも、あなた一人でそんなことできますかね」

 警察官は何を握っているようにでもそれを隠すかのように話していた。

「もし一人でしてきたと言うのなら、方法は誤ったとて並大抵以上の努力をしてきたのだろうと思われます」

 僕は何も言わない。

「本当であれば、私たちは君を保護しなければならないし、君自身で行ったのならば、何かしらの処罰を与えなければいけない。でもね、僕はそんなことしたくないんですよ。と言うのも、いろいろありましてね。ええ。だからね、『今』捕まえたくないのです。『時を見て』捕まえたいのですよ。今回は『父親の暴走』として処理したい。『男娼』は『妄言』として片付けたいのです。そのためにはあなたの協力が必要なんです。誰です?あなたのパートナーは」

 警官は質問してきた。僕の答えは決まっていた。

能登のとです。能登正美のとまさみ。四十代の女性です」

「能登、ですか。そうですか。あなたはそう答えるのですね」

 警官は信じていない。きっと桐原のあるところまでは調べがついているのだろう。

 能登正美。桐原は警察に自分のことを話す時この名前を使えとずっと言っていた。それ以外は本当のことを話していい。でも、名前だけは能登正美にしろ、と言われていたのだった。

「僕はその人の名前を知りません。僕は能登正美としてずっと付き合ってきました。だから、僕はそれ以上のこともそれ以下のことも知りません」

「それじゃ、その能登にはどこで会えるのですか?」

「僕も最初以来携帯でしか話をしていないので、どこにいるのか、どこに住んでいるのかとかは知りません」

 警官は僕の目を覗き込んだ。包帯越しにも警官の目が見えるような気がした。

「そうですか。ありがとうございます。無事退院なさることを祈っております」

 警官はそう言って病室を去った。

 翌日、新聞には父のことがニュースになっていた。お昼のワイドショーでは「貧困家庭の闇」として事件のことが大きく取り立たされていた。僕にとってはどうでもいいことだった。

 一ヶ月後、なんとか退院することができて、僕は家に帰った。家の壁には、「淫乱」とか「この売男め!」とか「この街から消えろ!」とか書かれていた。何も気にすることはなかった。家の中は荒らされていた。窓ガラスが割れて空き巣が入り放題になっていた。でも、僕が隠したお金には気づいていなかった。これまで二年間で貯めたたんまりのお金がそのまま眠っていた。荒廃して家と呼んでいいのかわからないところで僕は突っ立っていた。

「これからどうしよう」そう呟いてみた。虚空に僕の声は変に響いた。

 携帯電話は返されたけど、もちろん、桐原から連絡がくることはなかった。

 僕の生きる意味は失ってしまった。桐原との仕事の関係も人間としての関係も。全て失ってしまった。僕は桐原のことが好きだったのかもしれない。愛していたのかもしれない。

 結局僕は桐原と寝たことはない。何度も寝たい、彼女を抱きたいと思っていた。でも、彼女はいつも電話越しで仕事の内容だけを伝えた。

 ある日、夕飯を誘ったことがある。桐原は「忙しいから」と言う理由で断った。でも、多分それは本当の理由じゃないんだと思う。僕はあくまで男娼だから、商品だから。桐原にとって僕はパートナーではなく商品なんだと思う。でも、それでもよかった。僕にとって桐原の期待に応えるのが生き甲斐だった。初めて必要とされた。僕を買う人たちに抱かれることで僕は生を感じていた。必要とされている、そう感じることができた。

 でもその全てを奪ったのは父だった。また、父だった。

 二年前のあの日のように、僕はダイニングだったところに麻紐を吊し、首をかける。二年前より伸びた身長のせいで、すぐに足がついてしまう。椅子を用意して椅子を蹴り飛ばすことで首を絞めようと試みる。でも、やっぱり怖かった。何度も椅子を蹴ろうとするのだけれど、怖気付く。そして結局失禁した。僕はこの二年間で何も成長していなかった。自分の漏らした水溜りの上で跪きながら咽び泣いた。惨めでどうして生きていけばいいのかわからないまま泣いた。何百万ものお金を抱きながら。そして泣き疲れて、僕は自分の部屋に戻った。机の上には日記帳が置いてあった。桐原と関係を持ち出してから書いていた日記だった。僕はそれを手に取ってなんとなく読んでみた。


◯月◯日

 今日、桐原に言われた。過去よりも現在が大事なんだと。意味はわからない。でも、桐原に会えたから今を生きていける。だから、もう少しだけ生きようと思う。どうなるかわからないし、怖いけど、せっかくの命なんだから、現在いまを生きようと思う。もう少しだけ。


 僕は、この先を読むことができなくなっていた。僕は全ての過去を父親によって打ち砕かれた。脆い関係でも僕を繋ぎ止めていた桐原との関係は僕に取ってはかけがえのないものだったし、それを失いたくはなかった。でも、それですらもう過去のものとなった。桐原なら言うだろう。過去は関係ない、今生きることが大事だと。

 僕は、抱きかかえた何百万ものお金を見る。

「これだけあればもう少しだけ生きていけるかな」

 今を生きようと思う。でも、僕は桐原みたいに、過去を簡単に捨てることはできないし、傷として残り続けるだろう。そして、僕は生きていけるかもわからない。だから、生きていくための目標を作ろう。マラソンを走り切るための目標のように。

 僕は椅子に座り、日記の真っ白なところから、文章を書き始めた。過去と決別するために、僕が生きていくための理由を生み出すために、

“Tiny Idle”

 小さな偶像。そう名付けて僕はこの文章を書き始めることにした。

 もう少しだけ、もう少しだけ生きるために。

 もう少しだけ、そう思いながら。


 ある日、使わなくなった携帯が鳴った。SMSメッセージだったその通知を見る。

「一時間一万五千円。買いませんか。能登」

 僕は、彼女を買うことにした。彼女を救うために、僕がもう少しだけ生きるために。

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tiny idle θ(しーた) @Sougekki

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